written by 松堂秀樹
シャワーヘッドからは、氷のような冷たい水しか出てこなかった。土ぼこりと油、潮のにおいが染みついた体に浴びせた。
2011年4月上旬、宮城県仙台市にあるホテルは停電していた。室温は0度程度で、外気とほぼ同じ。上着を重ね着したが、震えが止まらず、一睡もできなかった。
津波で家を失った人は、あとどれくらい、こんな夜を過ごすのか。暗たんとした気持ちになった。安全靴を履いたままベッドに入った。
宮城の沖縄県人会会長として、塩浜康輝さんは安否確認に追われていた。理髪店経営の金城俊史さんはタンスの上にしがみつき、津波から生還した。比嘉春吉さんは消息不明の孫娘を思い、涙を流した。取材に応じた方々の表情が昨日のことのように思い出される。
体育館の入り口に、身元が分からない遺体の顔写真があり、推定年齢など特徴も記されていた。濁流で土色になった女の子の写真には「5歳程度」とあった。
同い年の娘を思い出して、涙が止まらなくなった。女の子の家族は迎えに来てくれただろうか。
津波で流された漁船が建物に突き刺さり、車が墓石の上に乗っていた。あれから10年。破壊された街は元に戻ったかもしれない。
だが、大切な家族や自宅、故郷を失った人たちの心が震災前に完全に戻ることはない。
被災地の風景やそこで出会った人々をいつまでも忘れることはできない。
◇ ◇ ◇
未曽有の大災害から10年。琉球新報はこの間、延べ20人以上の記者を現地に派遣し、主な取材先となった沖縄県出身者らの視点を通じて被災地の現実を伝え続けた。あの日から変わり、変わらないことは何か。現場の今を報告し、派遣記者が現場の変遷を振り返った。