<書評>『歌集シンギングサンド』 〈私〉のありよう


社会
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『歌集シンギングサンド』仲間節子著 現代短歌社・2750円

 著者の情報をもって、書かれた作品を簡単に意味づけてしまうことは、今日、安直な読み方として批判される態度だ。無論、そうしたことを重々弁(わきま)えておいても、短歌における〈私性〉は、歌を詠む上での重要な論点となっている。次は、戦後の短歌を実作や批評をもってけん引し、昨年亡くなった岡井隆の『現代短歌入門』(講談社学術文庫・1997)の一節である。

「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです」

 歌集『シンギングサンド』は、仲間節子の第一歌集である。本書には、まさに「作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見える」ような歌が並ぶ。巻末の略歴やあとがきには「1950年 琉球列島米国軍政府統治下の沖縄・宮古島に生まれる」のほか、著者の道程が記されている。しかし、巻頭からページを順に開いていく読者は、巻末に読み至る前に既に本書の分厚い〈私〉をかみしめることになる。

 苧麻(ちょま)紡ぐ細き腕に針突(はじち)ゆれ糸車(やま)カラカラと祖母は回しき

 方言札首より下げて囚人のごとかりしわが島言葉貧し

 NHKの生(なま)の正しき日本語を学ばんとして真剣に見き

 本書には、次のような一首もある。

 「反戦歌」「沖縄を返せ」をうたいつつ心と身体が分離してゆく

 〈私〉とは〈私〉が完全に統御できるような自己一貫したものではなさそうである。読者はいつの間にか、『シンギングサンド』の〈私〉の揺らめきや〈私〉から零(こぼ)れる〈私〉にこそ目を奪われていくことになる。

 (安里琉太・俳人)


 なかま・せつこ 1950年宮古島生まれ。74年に国士舘大学文学部卒業。県事務補助員を経て、中学の臨時教諭、高校の国語・書道の講師を28年務める。98年以降、県歌話会、紅短歌会などに所属。2001年からかりんの会沖縄支部に入会、本格的に作歌を始める。