凝りもせず、の一言では終わらない「危うさ」を感じる法案である。自民党有志(高市早苗ら「保守団結の会」所属議員ほか)は今国会に、国旗損壊罪の新設を含む刑法改正案を提案する動きを見せている。刑法改正については、強制性交等罪の成立要件緩和に関心が向いているが、2012年に廃案になった法案を、再度いま提出する意味を確認しておきたい。
沖縄と日の丸
沖縄と日の丸の関係性は複雑だ。復興五輪と位置付けられている今回の東京五輪の聖火リレーの出発点は福島だが、前回は返還前の沖縄だった。まさに国策としてのオリンピックを表すもので、「復帰の象徴」として沿道には日の丸の小旗を振る市民が、当時の新聞の1面を飾った。復帰運動でも、日の丸は必須のアイテムであり、沖縄教職員会(後の沖教組)も、学校での日の丸掲揚実現のための運動を繰り広げていた。
しかし一転、復帰後においては肯定的に受け入れられていたとは言えない。例えば、長くNHKは1日の放送終了時の画面を日の丸にしていたが、沖縄においては風にたなびくその画面が使用されることはなかった。沖縄国民体育大会の会場に掲揚された日の丸を焼き捨てる事件も発生した。さらに今日でも、国や一部の自治体の記者会見場には、国旗としての日の丸を掲揚しているが、沖縄県知事会見では存在しない。
ここで少しだけ日の丸焼却事件を振り返ると、1987年4月、読谷村のソフトボール会場で、掲揚台の日の丸が引きずり降ろされて燃やされた。当時の読谷では、行政も議会も掲揚や強制に反対しており、掲揚方法も事前の協議で折衷案になっていたものの、当日、ソフトボール協会長が独断で掲揚を強行し事件が発生したとされている。
ちなみに93年の那覇地裁判決は、威力業務妨害罪を認め「起訴状記載の『国旗』は、日の丸をさすと理解できる」と言及した(95年控訴棄却、確定)。本紙も含め多くの新聞は「日の丸は国旗と認定」と報じたが、のちに裁判官は否定している(実行者の知花昌一はこの行為で、第1回多田謡子反権力人権賞を受賞した)。
尊重義務と侮辱罪
この間、99年の国旗国歌法の制定を挟み、教育現場を中核とする、国旗である日章旗と国歌である君が代の「強制」は、強まることこそあれ弱まることなく続いていてきている。制定に際する首相談話でも「新たに義務を課すものではありません」と明確に述べているものの、日の丸掲揚・君が代斉唱ともに0%だった沖縄県内の公立高校においても、その実施率は本土並みとなってきた。
こうした教育現場における、君が代日の丸の強制と教師の良心の自由をめぐる、憲法上の争いについて言及する紙幅はないが、いまだに多くの訴訟が継続されている。司法の場では、裁量権の逸脱・濫用(らんよう)が認定される事例も続いているが、教育委員会が、当初の処分取り消しが裁判で確定した後に、新たに戒告処分を出し直す事例(再処分)が続くなど、むしろ状況は混迷しているともいえる。
そうした中での法案提出であるわけだ。ただし、この問題は立法当初からくすぶり続けている課題でもある。実際、法制定時に国旗・国歌尊重義務規定を設ける考えが示されていたにもかかわらず(たとえば、99年3月12日の野中官房長官記者会見)、結局条文化は見送られた。
さらに国会審議において小渕首相(当時)は、「法制化に伴い、国旗に対する尊重規定や侮辱罪を創設することは考えておりません」(99年6月29日)と明言はしたものの、それは「現内閣において」設けないという含意と解釈されてきた(8月2日参議院国旗及び国歌に関する特別委員会会議録、野中官房長官の答弁から)。
思想表現の自由
今法案の提案理由としては、外国の国旗については損壊罪が明記されているのに、自国の国旗に条文がないことは問題だというものだが、その本意は、尊重義務違反・侮辱罪の焼き直しであるといえよう。現在の刑法にある外国国章旗損壊罪の保護法益が、外国を侮辱することが両国間の紛争の火種となって安全や国際関係的地位を損なうものと明確であるのに対し、日の丸には当てはまらない。
しかもこの問題が、ズバリ表現の自由の問題であることへの思慮が、まったくないように見える点が心配だ。たとえば、政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為がなぜ許されないのか。芸術作品の中での日の丸の描き方次第で、罰の対象なることをどう考えるか。極論すると、スポーツ観戦で小旗を振っていて、敗戦の腹いせに投げ捨てる行為まで、なぜ刑法で取り締まる必要があるのか。
この問題を語る際には、米国の例が出されることが多い。連邦議会が制定した国旗保護法の適用に対し最高裁は90年、「国旗冒涜を罰することは、この象徴的存在をかくも崇敬され、また尊敬に値するものとせしめている自由を弱体化させる」(日本弁護士連合会・訳)として、違憲判決を出した。その前年には、抗議目的で国旗を焼却した人を処罰したテキサス州法に対しても連邦最高裁は、「政府は表現が不快だとかそれを支持できないからといって、当該行為を禁止することはできない」と表現の自由に照らし違憲としている。
前述の例にもあるように、日本でも公共施設の国旗を燃やせば器物損壊罪等が適用されよう。しかし、自分の所有物を、やむにやまれぬ気持ちで、抗議の意を込めて壊すといった表現手段は、表現の自由の範囲として許容しておくことが必要だろう。それはまさに、日の丸に対する様々(さまざま)な感情の持ちようを認め合うことと同じである。いままさに、そうした余白を一切認めようとしない政府もしくは為政者の狭隘(きょうあい)さが問われている。
この問題は、なんとなく反対しづらい話であるとともに、野党も学校現場における強制を追認してきた歴史がある。それだけに、いったん提出されると、国会審議が形骸化している今日においては簡単に成立する可能性があるだけに、社会全体のチェックがきちんと働くかどうかが重要だ。
(専修大学教授・言論法)
(第2土曜掲載)
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本連載の過去記事は本紙ウェブサイトのほか、「見張塔からずっと」と新刊「愚かな風」(いずれも田畑書店)でも読めます。