「やっとスタートラインに」震災経て募るふるさとへの思い 岩手出身記者が同級生に聞く<15の春>3


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「高校卒業時から宮古に関わりながら働きたいと思っていた。念願かなった」と話す八島彩香さん=2日、岩手県宮古市

 しとしとと雨が降る2日午後、幼稚園からの同級生・八島彩香さん(25)=宮城県在住=と、同郷の岩手県宮古市で10年ぶりに再会した。待ち合わせ場所は、10年前の東日本大震災で彩香さんが避難した神社。対面した彩香さんは当時の面影を残していた。 (関口琴乃)

 「久しぶり」。少しの緊張を抱きながらあいさつを交わす。石畳の階段を上り、町内を見渡せる境内に立った。すうっと息を吸い込み、呼吸を整える。「そうそう、ここで津波を見たの。あの日はね―」。対話を重ねるごとによみがえる記憶。一緒に町を歩きながら、震災体験やその後の暮らしを聞いた。

 彩香さんと私が育った宮古市は三陸沿岸の港町。震災後は働き手世代の流出で高齢化が加速する。「うちの近所も子どもがほとんどいない。デイサービスの送迎ばっかり」。通っていた小学校も20年3月に閉校した。思い出のブランコや鉄棒もなくなった。「なんか、さみしいね」。ぽつりとつぶやき、枯れ草が一面を覆う校庭をカメラに収めた。

何度も上った坂道

 地震が起こったのは、中学からの下校途中だった。偶然、同じ地区に住む同級生3人と会った。「中学ではあまり話さなかった友だち。でも『こわいね』ってみんなで走って帰った。心強かった。みんなその後どうしてたんだろう」。同級生は皆無事だったが、それぞれが自宅に向かった後にどんな一夜を過ごしたのかを知らない。あの日の出来事を周りと共有しないまま10年が過ぎていた。

 2日は、記者が避難した高台も訪れた。小学校の避難訓練と同じルート。低学年の時から「地震の後は津波が来る」としつこく教えられ、何度も登った。急な坂道を黙々と歩く。マスクをしていると余計苦しく感じた。あの日の様子を説明しながら、横に並んで当時と同じ景色を見る。「ここにいたんだね」。言葉は少なかったが、お互いの無事を改めて実感した。

 彩香さんの自宅は津波で1階が浸水した。がれき撤去や掃除に追われる日々。その中でも、被災状況を調査していた市の職員の姿が印象に残っているという。「男性2人が一軒一軒、訪ね歩いていた。被災しているかもしれないのに、自分を犠牲にして働いていてかっこよかった」。この時から、町のために何かできないか考えるようになった。

彩香さんが避難した神社の境内より。奥に見える閉伊川から手前の道路まで津波が押し寄せた=2日、岩手県宮古市

社会人経験積む

 震災から約1週間後に中学の卒業式が開かれ、市内の進学校に通った。高校時代に参加した地域のまちづくり活動の経験から宮城県の宮城大学に進学。学内にとどまらず、ボランティアやインターンにいそしんだ。高校卒業時から宮古に関わって働きたいという気持ちがあった。だが、地元で生かせる力を付けるために、宮城県で社会人経験を積んだ。

 震災がきっかけでできた「地域と関わりたい」という軸を胸に進路を選んできた。宮城県内で転職したときは「宮古で仕事をする目標にたどり着けるのか」と不安になったり、地元に残って働く同級生の姿を見て「自分も何かしないと」と焦ったりもした。それでもふるさとに関わる道を諦めなかった。

 昨年10月、宮城県丸森町出身でディーラーの営業をする八島悟さん(25)と結婚。宮城県に生活拠点を置いた。震災から10年。この春、高校時代に通った宮古のNPO法人「みやっこベース」で副業が決まった。若者のキャリア形成に取り組む団体だ。宮城県に住みながらリモートで広報の仕事を手掛ける。「念願がかなった。やっとスタートラインに立てた」と喜びをかみしめる。宮古にいる仲間を巻き込みながら、若者にとって住んで楽しい、関わって楽しい宮古の町にしたい―。その希望を胸に彩香さんは新たな一歩を踏み出す。


<記者のメモ>

 震災後、その衝撃から自分の心を守るために現実逃避をした。自分の生活をどう元に戻すかで頭がいっぱい。現実を冷静に見ていた彩香さんとは対照的だ。私は自宅にこもり、教室で読んでいた本の続きをひたすら読み進め、津波が来る前の日常を取り戻そうとした。何かをしていないと落ち着かなかったが、外の世界から目を背けていたため、ボランティアをしようという気も起きなかった。取材で見つけた共通点は、震災を思い出すと今の方が苦しくなるということだ。当時の15歳は月日を経て大人になった。守られる立場から守る立場へ。その責任も感じている。