無数の遺体を丁寧に運び、自分を励ましたあの警官のように 岩手出身記者が同級生に聞く<15の春>6


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震災直後から全国各地の警察が被災地に入り、行方不明者の捜索や復旧・復興活動に当たった=2011年4月、岩手県宮古市(いわて震災津波アーカイブ、宮古市提供)

 東日本大震災(2011年3月)から1週間が過ぎた18日。私が通っていた岩手県宮古市の中学校では、予定より3日遅れで卒業式が開かれた。会場はこぢんまりとした会議室。式次は短縮され、生徒も制服姿に体操服姿とばらばらだった。どのような形であれ、式ができただけでも良かったという状況だった。

 卒業する同期生の中に橋本北斗さん(25)=岩手県宮古市出身、東京都在住=の姿もあった。卒業式の数日前、北斗さんの母真弓美さん=当時(45)=の遺体が見つかった。震災後に生徒がそろうのはこの日が初めてだった。

 

 なんで俺だけ…

 久しぶりの登校日。北斗さんはできるだけ明るくみんなと接した。「悲しんでいるところを見られたくない」。自分なりのプライドがあった。教室に入ると担任教師に「大変だったな」と声を掛けられた。「なんで俺だけ、こんなに悲しい思いをしないといけないんだ」。こらえていた涙が一気にあふれた。

 北斗さんは3人兄弟で、兄2人も野球をしていた。野球好きだった母は息子たちの試合に必ず駆け付け、応援席の最前列に立ち、人一倍大きな声で応援した。母の周りはいつも明るかった。

 中学卒業後はふるさとを離れて野球の強豪校に進学する予定だった。母が亡くなり、進学を諦める考えも浮かんだ。だが父は「北斗が野球をやらないことになったら、母さんにどんな顔して会えばいいか分からないだろ」と言い、北斗さんの背中を押した。高校野球が大好きだった母。「直接見せることはできないが、自分にできるのは野球しかない」。そう自分を奮い立たせて高校へ進学。大学でも野球に打ち込んだ。

 

 

橋本北斗さん(警視庁提供)

 見守っていて

 震災後、北斗さんの母方の祖父母は実の娘を失った悲しみを抱えながら、兄弟3人に惜しみない愛情を注いだ。野球の大会で優勝したときや就職が決まったとき、結婚、ひ孫の誕生など成長を心から喜んだ。祖父は「真弓美にも見せたかった」と涙を流す。北斗さん自身も事あるごとに、母にしてあげたかったことを思い浮かべる。「母親に親孝行できなかった分、祖父母孝行をしたい」

 ふるさとの宮古市には年に1回は帰省している。昨年11月は婚姻届を出すために訪れた。一番最初に母が眠るお墓に行き、結婚の報告をした。手を合わせ、母に話し掛ける。「いつも見守ってくれてありがとう。これからも頼むよ」

 

 憧れの背中

 震災から10年。警察官となり、新宿警察署の留置管理課に勤務している。岩手県での就職も考えたが、東京で数々の業務をこなしながら経験を積み、今後起こるとされる災害に震災経験者としてできることを生かしたいと考えた。

 警察官を志した背景には、母の遺体捜索に関わった警察官との出会いがある。「嫌な顔一つせず無数にある遺体を丁寧に運んでいた」。津波で母を失った自分をひたむきな姿で励ました、警視庁の文字が書かれた制服姿が忘れられなかった。

 「強さの中に優しさがある警察官になりたい」。そう心に誓い、あの日出会った警察官の背中を追い続ける。

 

<記者のメモ>

 震災の混乱が続く中で開かれた卒業式。卒業証書授与で北斗さんが誰よりも大きな声で返事したことを、今でも覚えている。暗然とした気持ちがその声に励まされてしまった。気を張り詰めていた1週間だった。門出の歌の途中、どこからか伝っていった涙声は、生徒全体の涙を誘った。

 震災当時の15歳は、現在25歳の大人になった。就職や結婚、子どもの誕生などを経験し、今は誰かを守る側に立つ。同期生は当時見た光景を心に刻み、自分の使命を見つけながら社会人としての道を歩んでいた。

 今回は記者として同期生と再会した。震災後10年、家族や友人に明かしていなかった思いを聞きながら、私自身も震災の出来事と向き合った。この連載が「あの時、こう思っていたんだよ」という手紙の役割としても共有されればと願っている。
 (関口琴乃)