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知念高校(7)聖火ランナーに国体総合優勝、文武両道の高校生活に<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
当山尚幸氏

 県選挙管理委員会の委員長で、沖縄弁護士会会長や県収用委員会会長などを務めた弁護士の当山尚幸(73)は知念高校の21期。「1年から3年、それぞれの学年で大変なことがあった」と語る。

 玉城村屋嘉部に生まれ、玉城中学校では陸上競技に励んだ。63年にあこがれだった知念高に入学し、陸上部に入る。ところが予想外の出来事に遭う。
 「4月初旬から5月中旬まで空前のバスストが続いた。バス通学をしていた玉城の生徒はヒッチハイクで登校するしかない。帰りは徒歩。成績はがた落ちした」

 干ばつにも苦しめられた。井戸が枯れ、飲み水にも事欠いた。「てんびん棒にバケツを提げ、1キロ離れた山中の水源地に通った。生きるだけで大変だった」と当時の苦労を振り返る。おかげですっかり痩せこけてしまったという。

 64年の東京オリンピックで得がたい経験をした。陸上部が聖火ランナーを務めたのである。9月8日、日の丸と五輪をあしらったランニングシャツを着た当山は、トーチを持った3年生と共に、与那原小学校前から中城村まで走った。

 「米統治下で一足早く日本人になったという意識を持って走ることができた。沿道の人々も日の丸の小旗を持って応援した。感動しましたよ」
 部活動と学業の両立を考え、当山は2年の3学期から学寮に入る。通学時間を勉強に充てる考えだった。食事は質素で、週1回のカレーライスが楽しみ。その頃、弁護士が登場するドラマに感銘を受ける。

 「学校の近くある食堂のテレビで見た『判決』という人情味のある社会派ドラマに心が洗われる思いがした。弁護士という仕事は素晴らしい。大学の法学に行こうという気になった」

 高校3年の夏、大分で開催された高校総体に走り幅跳びで出場し、6位入賞を果たした。「本土に対する劣等感があったが、対等に戦えることが分かった。賞状は家宝にしている」
 当山は「団塊の世代」に当たる。同級生は約500人。「舟木一夫の『高校三年生』を歌って卒業した。濃密な3年間でした」

瀬長睦子氏

 向陽高校の教諭で、なぎなたの指導者として活躍する瀬長睦子(51)は43期。在学中の86、87年、全国高校なぎなた選手権で知念高が団体の部で2連覇。87年の海邦国体でなぎなた少年女子に出場し、総合優勝を果たした。

 生まれは西原町。高校教諭の母・真栄城紀子がなぎなた連盟副会長だった恩師に促されて、なぎなたの指導者となったのを機に、小学校5年生だった瀬長もなぎなたを始めた。母もそれまで未経験だった。

 「何も分からないところからのスタートだった。なぎなたの本を手にした父の『右、左』という合図で、母と一緒に練習した」
 中学生の時、海邦国体の強化選手となり、母が勤めていた知念高校へ進んだ。「学校全体が部活で盛り上がっていた。部活をするのが当たり前という感じだった」と当時の校風を振り返る。

 国体に向けて練習に励む中で瀬長は重圧を感じていたという。「このまま永遠に練習が続くのかな」と思うこともあった。
 「国体で県挙げて盛り上がっており、『優勝しなければならない』という空気だった。インタビューを受けて『優勝します』と答えるものの不安があった。県内のいろんなところで高校生がそれぞれの思いを抱え、戦っていたと思う。今振り返れば、先生方が私たちを守ってくれた」

 国体で総合優勝を果たし、達成感と同時に「ほっとした」。卒業後、国際武道大学に進み、帰郷後は母と同じ高校教諭となぎなた指導者の道を歩む。知念高校にも昨年3月まで9年間勤めた。

 最近、同級生とLINEでつながったことで高校時代のことを思い出すという。向陽高に赴任する前、かつて学んだ教室にクラスメートやなぎなたの仲間、担任が集まり、記念写真を撮った。「男生徒はおじさんになっていた。皆に会えて、本当に楽しかった」

 グラウンド沿いの海は埋め立てられ、窓から見える風景も変わった。それでもお互いの顔を見て、楽しかった日々が一気によみがえった。
(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)