「沖縄戦の先導者は教育と新聞」 司令部壕跡の首里城で藤原本紙客員編集委員


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 沖縄戦で地下に第32軍司令部が置かれた首里城公園内の戦跡を歩く「沖縄戦を知るピースウオーキング」(同実行委員会主催)が27日、那覇市首里で実施された。日露戦争などで戦死した軍人を顕彰した忠魂碑や、沖縄戦に動員された沖縄師範学校の学徒や当時の新聞「沖縄新報」の記者らが詰めていた留魂壕などを巡り、戦争の負の遺産を語り継ぐ意味を考えた。

沖縄戦当時、沖縄師範学校の学徒や校長、「沖縄新報」の記者らが詰めていた留魂壕の前で説明する藤原健さん=27日、那覇市の首里城公園

 元毎日新聞大阪本社編集局長で琉球新報客員編集委員の藤原健さんは、首里城東側の城壁の下の留魂壕の前で「沖縄戦をいわば先導したのが教育と新聞だ。二つがこの中に入っていた」と説明した。沖縄師範学校について「全県から優秀な生徒が集まる最高学府が、天皇のために死ぬ日本軍兵士養成の場となった」とし、「沖縄新報」について「大桝大尉を『軍神』と祭り上げ、日本軍の戦果を宣伝した。新聞の使命を果たしていなかった」と断じた。32軍司令部壕の保存・公開に向け「留魂壕の意味をどう総括し、司令部壕との関わりを意味付けていくかが大事ではないか」と話した。

 首里城の歓会門の近くには、戦死した軍人を顕彰する忠魂碑がある。恩納村史編さん係の瀬戸隆博さんは県内各地の忠魂碑は、日露戦争で県出身者が出征・戦死して以降、本格的に建造され、戦意高揚に使われたと解説した。

 2012年に県の32軍司令部壕説明板設置検討委員会の委員を務めた村上有慶さんは、司令部が置かれた地域では住民の死亡率が高いと推定され、南部撤退がなければ住民の犠牲は半分で済んだとみられると話し「こうしたことを説明板に記述しようとしたが『根拠がない』と県に削られた」と説明。実態を調査し、整理する重要性を指摘した。

 今回のピースウオーキングは、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小し行われた。