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知念高校(5)「カラフルだった」高校時代の照屋副知事 バスケに打ち込んだ県経営者協会の金城会長<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「くじら岩」の名残をとどめるくじら橋と知念高校

 県商工会連合会会長や県建設業協会会長を歴任した照屋義実(73)は知念高校の21期。2001年1月から1年間、県教育委員長の任にあった。しまくとぅばの普及継承を図る「しまくとぅば連絡協議会」会長を務めたこともあり、多彩な顔を持つ。元副知事の新垣雄久の後を継ぎ、5代目の知念高校同窓会長を10年以上務めた。

 1947年、与那原町与那原の生まれ。63年に知念高校に入学した。1966年刊の同窓会誌「知友」に寄せた文章「クラブ活動の周辺」で高校生活におけるクラブ活動の意義を、ユーモアを込めて熱っぽく説いた。

 「青春の情熱はなにものにも換えがたい。そして、その溢(あふ)れるばかりの情熱は単にオデコのニキビとなって吹き出すのみではない。我々(われわれ)高校生の場合は、スポーツを含めたクラブ活動に熱中する事、それがもっとも正常な情熱のはけ口であるように思われる」

 この文章をつづった頃の心境を「ガリ勉ばかりのモノトーンの高校生活にはしたくないという反発があった。もっと自分の可能性を見いだす時期だ。僕はカラフルな高校生活を送った」と振り返る。

照屋義実氏

 照屋は自身の情熱を柔道に注いだ。生徒会活動にも携わり、生徒が良質な水を飲めるよう水道の整備を校長に求めた。新聞部の活動では教育に関する質問を生徒と教師に投げ掛け特集紙面を組んだ。応援団にも参加した。「社会に出て物事を判断できるよう体験を積んだ。クリエーティブな高校生活だった」
 「好きな女の子もいた」と懐かしむ。自転車で一緒に校門を出て、下校した。学友が学生服を着るなか、那覇の市場で買ったHBT(軍服)を着て通学するという行動にも出た。「目立っていたでしょうね」と照屋は笑う。

 言葉通り「カラフル」な高校生活を送った照屋は66年、琉球大学へ進学したが半年ほどで退学。家業の建設業・照正組を継ぐことを意識し、翌年、福島大学経済学部に入学した。

 経済人として歩んできた照屋は2015年、翁長雄志県政の県政策参与となる。そして、今月11日、玉城デニー県政の副知事となった。照屋に新たな顔が加わった。

金城克也氏

 照屋の後継として16年に6代目の同窓会長となったのが29期で県経営者協会会長の金城克也(65)である。「部活動で仲間と一緒に過ごした3年間は忘れられない」と高校時代を回想する。

 1956年、玉城村玉城の生まれ。沖縄の施政権返還を前にした71年に知念高校に入学した。金城が打ち込んだのはバスケットボール。「毎日、バスケットに明け暮れた。結構強いチームだった」
 部員自ら練習メニューを組み立てた。「きちっとしたコーチはいるわけではない。仲間たちで独自に練習を考えた。新里坂やバックナー入り口(津波古交差点)の坂道をダッシュした。きつかった」

 夏場、練習が終わった後の楽しみがあった。グラウンドの向こうにある海で泳ぐのである。「学校そばの海に『くじら岩』という岩(クジラービシ)があり、干潮になると岩が海面から浮き上がる。そこまで泳いでいった」
 下校後、与那原三差路にあったという天ぷら屋に通うのが、もう一つの楽しみ。店のおばさんとも仲良しになった。卒業前は同級生の実家にあるサトウキビ畑の収穫を手伝った。「お互いの家の畑を交互に手伝い、サトウキビを担いだ」。高校生もユイマールの担い手だった。

 卒業翌年の75年、先輩の助言で東洋石油に入社。95年にりゅうせきに入社し、06年に社長となった。現在、同社の会長を務めている。
 同窓会長になって今年で5年余りになる。学校行事には母校に足を運ぶ。卒業式では毎回、同じ思いを卒業生に伝えてきた。

 「自分一人の力で卒業できたのではない。家族や地域、先生や先輩、後輩の応援を忘れてはいけない。同窓生の仲間を大切にしてほしい。あいさつする時は『知念高校卒業です』と言いなさい。先輩が大切にしてくれる」
 今年も第76期生となる310人が学びやを巣立った。知念高校の歴史に名を刻み、社会を歩む新たな仲間が加わった。
(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)
 (次回は19日)