各地に多様な防疫儀礼 人々の移動で融合も<沖縄と流行病7>


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 時に、シマクサラシ儀礼(村落への疫病の侵入を防ぐための年中行事)の名前から、村落や人々の来歴が分かる。

 シマクサラシ儀礼を「カウルガマ」と呼ぶ村落が宮古島にある。同島の約100村落でこの言葉を聞きまわったが、ほぼ「?」、「初めて聞く言葉」という答えで、2集落にしかなかった。池間島と伊良部島の佐良浜で、海上約10キロ離れた2集落の関係は約300年前にさかのぼる。1720年、池間島の14戸が佐良浜に移住し、村落を形成したという。

 次に、シマッサリという名前は、石垣島の真栄里村落と黒島にだけみられる。1771年の明和の大津波。真栄里の死者は村落全体の約80%にのぼったという。黒島から293人が移住し、村落を再建した。

 宮古、八重山の無二の名称の背景には、約300年前の人々の移動が関係していた。

 人々は対疫病の知識と方法をたずさえ、移動したと考えられる。

奄美と交流か

 交流や移動の痕跡かは不明だが、奄美の事例は興味深い。奄美にも、シマクサラシ儀礼に似た儀礼が広くみられた。沖縄や先島と違い、カネサル、ファネー、モーバレーワー、ハラタミー、ウシガタミー等と呼ばれる。

 その中で、徳之島の上面縄(伊仙町)だけは、大正時代まで行われていた当該儀礼をシマクサラシと呼んでいた。

 歴史的に沖縄と関係の深い村落といわれるが、具体的な交流や移動、年代などは分かっていないため、現時点では、興味深い偶然と捉えておきたい。

似て非なる儀礼

 沖縄本島のある地帯に、シマカンカーという名称がある。

 旧具志川市(現うるま市)に多く、名称を分類化した地図上でみると、北部のカンカー系と南部のシマクサラシ系のほぼ中間であることが分かった。

 本来シマクサラシとカンカーは同一の儀礼から名称が分かれたのではなく、似て非なる儀礼であったのではないか。

 そう仮定した場合、前回カンカー系の発祥地と提唱した浦添市牧港と、近隣の宜野湾市真志喜の事例は注目に値する。

 両村落ともカンカーとは別日に、シマクサラシと呼ぶ儀礼を行っていた。防疫のため動物を使う点は同じだが、動物の種類や方法が異なっていたという。牧港はカンカー系の南限村落で、一帯はシマクサラシ系とカンカー系の緩衝地帯と言えよう。

 シマカンカーという名称の分布的特徴、カンカー系の南限地帯(牧港・真志喜)の事例から、シマクサラシとカンカーは、動物・防疫という要素を持つ、内容の似たルーツの異なる儀礼であったと考えられる。

 2種の儀礼の伝播の過程で、その緩衝地帯において、一地域では融合しシマカンカーという名称が生まれ、一地域では古形を固持するため葛藤し、別日に実施するようになった。

続く変化

 災害はいつ起こるか分からない。疫病も同じで、流行した(またはそのうわさを聞いた)時、臨時に行うシマクサラシ儀礼が、本来の形と考えられる。

 しかし、その数は少なく本島周辺離島に集中し、本島の大半は毎年何月と決まっている。

 定期の儀礼は、臨時のものが定期化したと捉えられてきた。その方が理解しやすい(個人的にもそう理解したかった)。しかし、比較すると、そうではない可能性が大となった。

 臨時と定期の2儀礼が併存する村落がある。防疫意識の高さによるものと推測したが、両儀礼を比較すると、名称、動物の種類、災厄の種類、防疫方法、骨肉をつるす場所などが異なるのである。

 特に、臨時の名称は主にフーチゲーシで、シマクサラシやカンカーとは呼ばれていなかった。

 つまり、臨時と定期の儀礼の違いは、年数経過による変化ではなく、初めからシマクサラシやカンカーは定期の儀礼、フーチゲーシは臨時の儀礼として存在した。「似て非なる防疫儀礼」が多種あったと考えられる。

 初め、沖縄には流行病という脅威に対し、臨時に行う動物を使った防疫儀礼があった。次に内容の類するカンカー系の定期儀礼、そしてシマクサラシ系の定期儀礼が別々の地域で生まれた。人々は疫病に対する新規の儀礼を受容、あるいは誕生させ、古形を固守したり、柔軟に整理統合したりしてきたと言えよう。

 復活・消滅・統合、どちらにしても儀礼は今後も大きく変容していくと考えられる。

 ウィズ・コロナがスタンダードになるとも言われる中、沖縄の古今東西にみられたシマクサラシ儀礼にどのような変化が起こるのか刮目(かつもく)していきたい。

(宮平盛晃、沖縄文化協会会員)

(おわり)