読谷チビチリガマ悲劇から76年 「平和継ぐ」誓い胸に 小橋川清弘さん


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「証言収集を続ける中で、戦争体験者が負った心の傷は生涯消えないことを知った」と語る小橋川清弘さん=3月29日、読谷村波平のチビチリガマ

 【読谷】沖縄戦中に読谷村波平のチビチリガマで住民80人以上が犠牲になった「集団自決」(強制集団死)が起きてから2日で76年となった。生存者や遺族が高齢化する中、聞き取り調査を続けてきた元読谷村史編集委員で平和ガイドの小橋川清弘さん(63)=村瀬名波=は「関係者にはつらい記憶を呼び起こさせ、世に知られることでさらにつらい思いを強いてしまった」とおもんぱかる。だが、事実の継承は何よりも重要だと感じている。「戦争を知らない世代に、そのむごさ、愚かさ、そして平和の尊さを感じてほしい」

 チビチリガマでの惨事について、深い心の傷を負った生存者や遺族は戦後、長く口を閉ざしたが、1983年、ノンフィクション作家・下嶋哲朗さんらの調査をきっかけに全容が明らかになった。同年に遺族会も結成された。

 当時、村職員で青年団協議会会長を務めていた小橋川さんも、元村議の知花昌一さんら地域の先輩に声を掛けられ、調査に携わることになった。「最初はなかなか重い口を開く人はいなかった」。波平地区の住民について「小さな共同体の中で『知っていても遺族ではないから自分たちが勝手に話してはいけない』というタブーがあった」と振り返る。

 体験者が話すことで、強制集団死の当事者たち、特に生存者の行為が明るみに出て、責任が個人に帰され、非難につながるのではないか、と懸念も拭えなかった。それでも調査に携わる関係者は「平和のために沖縄戦の実相を伝える」という使命で一致していた。

 小橋川さんは遺族会の集まりに足しげく通い、当時担当していた読谷まつりなどを通して時間をかけて信頼関係を構築した。すると、これまでかたくなに口を閉ざしていた生存者や遺族は「何十年も胸に封じ込めた思いを、少しずつ打ち明けてくれるようになった」。資料に残さないことを条件に証言してくれる人もいた。小橋川さんは96年に村史編集室へ異動後も、独自に聞き取りを続けた。

 証言収集から見えてきたのは「住民を追い詰めたあまりに過酷な沖縄戦の実態と、皇民化教育の恐ろしさ」だった。戦争体験者の高齢化に伴い、記憶継承の在り方が問われる中、「当事者の証言より重みと説得力があるものはない」と感じている。だが、やがて体験者はいなくなる。「戦後生まれの我々が、当事者から聞いたこと、学んだことを正確に後世へ伝えていく。この繰り返しが、戦争を二度と許さないための重要な手段だと信じている」。小橋川さんは“聞いた者”としての使命を全うしたいと静かに語った。  

  (当銘千絵)