墓参りは今年も基地の中で 先祖に「待ってて」 普天間返還合意25年「ありえぬ長さ」


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 【宜野湾】宜野湾市の米軍普天間飛行場から泡消火剤が流出して10日で1年、同飛行場の全面返還合意から12日で25年となる。11日は同飛行場内で清明祭(シーミー)があり、基地内に墓がある住民らが米軍の許可を得て墓参りする。泡消火剤が流出した宇地泊川(比屋良川)沿いで沖縄戦中、米軍の砲撃を耐え忍んだ天久英眞さん(82)=市大謝名=は、平和の大切さをかみしめつつ返還合意後も続く基地被害に憤る。清明祭では基地内で眠る先祖に「(返還まで)もうしばらくお待ちください」と語り掛ける予定だ。

先祖の墓がある米軍普天間飛行場(後方)の早期返還を望む天久英眞さん=5日、宜野湾市大謝名

 6歳で沖縄戦を体験した天久さん。米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、大謝名地域で「メーガーラ」と呼ばれる宇地泊川へ避難し、川沿いにある4畳半ほどのガマに家族5人で身を寄せた。川の上流は嘉数高地があり、日米両軍が死闘を繰り広げた。付近は激しい米軍の艦砲射撃が襲い、熱を持った砲弾の破片がガマに飛んできた。

 別のガマに避難していた親戚はガマから出て、砲弾や破片が当たって亡くなった。多くの親戚や大謝名の人々が命を落とし「つらい思いをした。二度と経験したくない」と振り返る。

 戦後76年が過ぎ、焼けて何もなくなった土地から現在の市街地が形成された。街の中央にある普天間飛行場は25年前に返還合意がされ、先祖の土地が返ることを期待し喜んだ。しかし同飛行場は今も居座る。騒音が響きわたり、部品の落下事故が発生するなど危険な状態のままだ。泡消火剤の流出など環境被害も出ている。製糖工場で公害防止管理者などを務めた天久さんは、昨年の泡消火剤流出に「水は目に見えない所に浸透するので困る」と懸念する。

 普天間飛行場は名護市辺野古への移設が計画されるが、基地負担が辺野古周辺の住民にのしかかることは手放しで喜べない。「(人がいる)街の近くに基地があるのはおかしい。街から基地は離れてほしい」と考えている。

 基地外のフェンスから先祖の墓は目の前に見えるが、中に入るために米軍の許可が必要なことに不便さを感じている。「25年はありえないほどの長さ。早く(土地が)返ってきてほしい」。ただそれだけを願っている。

 (金良孝矢)