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辺土名高校(1)復興は軍服を着て…やんばるの教育、理想とともに 古堅実吉さん、宮城宏光さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
辺土名高校の正門=大宜味村饒波

 辺土名高等学校の歴史は1945年12月、「辺土名市」(国頭村、大宜味村、東村)への高校設置が決定したことに始まる。戦火で傷ついた生徒が学べる施設を求める北部3村の願いが結実した。

 46年1月、現在の国頭村辺土名に男子部、大宜味村喜如嘉に女子部が置かれ、戦前の旧制中学、師範学校の生徒が学んだ。この年6月には大宜味村饒波(ぬうは)の新校舎で男女共学が始まる。

 一時、田井等高校(現名護高校)の分校に位置付けられたが、47年5月に辺土名高校として独立する。

 元衆院議員の古堅実吉(91)は辺土名高校の4期。沖縄師範学校在学時に鉄血勤皇師範隊として戦場に動員され、捕虜としてハワイの収容所で暮らした古堅は46年秋、辺土名高の生徒となる。

 沖縄戦で多くの学友が犠牲となり、学びやまでを失った古堅は「戦争に引っ張られるのはごめんだ。勉強をやり直したい」という思いを胸に抱いていた。

1949年に卒業した辺土名高校の4期生(古堅実吉氏提供)
古堅実吉氏

 古堅実吉(91)は1929年、国頭村安田で生まれた。46年11月、ハワイの収容所から帰郷し、辺土名高校の2年に編入した。「通っている生徒のほとんどが下駄(げた)かはだし。縫い直した米軍の軍服を着て学校に通っていた」と話す。

 米軍の軍服を着た生徒の中で古堅は厚手の日本軍の軍服を着ていた。「ハワイから日本へ向かう船の中で支給された軍服だった。他に着る物はなかった」

 辺土名高に入学した頃は日本国憲法公布の時期に重なる。当時の心境を「軍隊を持たない、戦争のない世の中になることをうれしく思った。人命を奪い合う戦争は二度とあってはならないという雰囲気を生徒は喜んで受け入れていた」と振り返る。

 卒業後の50年、琉球大学に進む。しかし、米国の意向に左右される大学運営に反発して中退し、関西大学へ進んだ。大阪で学んでいる頃、54年の「人民党事件」で瀬長亀次郎らが弁護士なしの軍事裁判で裁かれたことを知った。

 「悲憤慷慨(ひふんこうがい)し、弁護士として人権、平和を掲げることが自分の道だと誓った。これが私の今日までの生き方になった」

 以後、古堅は弁護士、政治家として自らの生き方を貫く。「力を尽くして90歳になった。足腰が立つまでやれることはやっていく」

宮城宏光氏

 古堅と同じ4期に元県副知事の宮城宏光(88)がいる。羽地村(現名護市)稲嶺で生まれ、国民学校5年の時、教員だった両親と共に辺土名に移った。45年4月、名護の県立第三中学校への入学が決まっていたが、沖縄戦で山中に逃れた。戦闘が終わった後、13歳で開校直後の辺土名高に入学した。

 高校に通っている間、教科書やノートはなかった。後に中央大学で学び、海外留学を経験した宮城は「一番勉強したのは高校時代だった」と振り返る。

 「先生の頭の中にある知識だけで授業していた。今も不思議に思うが、授業内容は充実していた。教科書がないので、生徒も居眠りするわけにはいかない。スポンジが水を吸収するように学んだ」

 辺土名の男子部に通っていた宮城は大宜味村饒波への移転に伴い、大宜味村塩屋や国頭村浜で寮生活を送った。浜の寮は馬小屋や豚小屋を改装したものだった。食料は乏しく、いつも腹をすかせていた。

 「配給のメリケン粉で作った団子汁しかなかった。これだけでは足りないので週末に家に戻り、週明けにイモを学校に供出した。うちは親が教員なので畑がない。親類からイモを集めた」

 琉球政府・沖縄県庁で働き県政発展に尽くした宮城は貧しかった高校生活を懐かしく思い出す。苦労を重ねたが、イメージは明るい。

 「食べ物はなかったけれども、空襲の心配がなく、とても解放感があった。勉強はきつかったけれども楽しかった」

 1990年に県庁を離れた宮城は沖縄振興開発金融公庫の副理事長を務めるなど経済界で活躍。辺土名高同窓会長として母校を支えた。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)