米検閲屈せずに抵抗の詩 基地強化で「占領支配」、今も 喜舎場朝順<圧政下の文化活動>1


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喜舎場朝順さん

 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して沖縄が日本から切り離され、米統治下に置かれてから69年。1972年5月15日に沖縄が日本に復帰してから49年を迎える。米統治下に出版物への検閲も行われ、反米的な言論は弾圧された。米軍による制約がある時代状況の中、どのような文化活動が行われ、今の沖縄につながっているのか。当事者の談話や識者の寄稿で紹介する。

 初回は、米統治下に創刊された琉球大学文芸クラブの文芸雑誌「琉大文学」の同人、喜舎場朝順さん。反米的な表現についての統制で発売禁止処分を受け、「第2次琉大事件」では退学処分を受けた。当時の体験や今の沖縄への思いを寄せた。

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 ぼくは琉球大学国文科に入学すると同時に、「琉大文学」の同人となった。新川明さん、川満信一さん、岡本恵徳さん、豊川善一さん、松島康子さんらがいた。首里高校時代に文芸部長を務めていた時から、文学活動をする琉大生の方々と交流もあった。最初の頃、ぼくは詩や美術批評を「琉大文学」で発表した。3年次に発表した小説「暗い花」は、後に小説家の霜多正次さんによって「新日本文学」に転載された。

 当時、のんびりと自然をうたうほど平和な状況ではなかった。米軍の沖縄占領や朝鮮戦争などを目の当たりにして、ぼくの詩は権力へ抵抗する様相を帯びるようになった。

 時代が背中押す

 1955年に起きた伊佐浜(現・宜野湾市)の土地闘争の現場にいた。美しい田がブルドーザーで奪われ、家が焼かれるのを目撃した。恐ろしい焼き打ちを見て怒りがこみ上げ、黙っていられなかった。

 当時、ぼくが書いた詩「惨めな地図」は、本島各地が戦争の基地として「☆(ほし)印」で塗り込められていく状況に対する怒りの詩だ。以下に一部を抜粋する。

 〈おまえたちの 額と思考と足の上を/べたべたと敷き続ける滑走路/いたるところに星印に塗り込められた/ゴルフ場のある地帯/それは 昨日 朝鮮の若者たちと麦畑を焼き拂った/怪獣の屯所(とんしょ)。そして/そこにも あの漁夫を殺した同じ悪臭をはなつ/罐詰が蓄蔵されている。に違いない〉

 〈さまよえる民/ホントウのコトが知りたい人びと/「自由」に飢えている民よ/イクサは決してやりません と誓った/おふくろたちよ/おまえたちは知っているか/こんな惨めな地図を〉

 沖縄戦体験を基にした反戦の思いを忘れるなという思いで、この詩を書いた。この詩が掲載された「琉大文学」八号は発売後、米国民政府の統制で回収され、発売禁止処分となった。米国の占領支配がここまで手を伸ばしてきたのかという印象だった。危機的状況は足元までひたひたと迫ってきたことを感じた。

 それでも「琉大文学」へ掲載する作品を書き続けたのは、時代がぼくの背中を押していたからだと思う。厳しい米軍の弾圧がある中で、逃げようと臆(おく)する気持ちがなかったわけでない。米軍の弾圧が降りかかってくる中、他人の背の後に隠れることもできたが、正直に前を向いた。「たじろぐなかれ」との思いだった。
 

4原則貫徹、プライス勧告反対を訴えた琉球大学のデモ行進=1956年7月28日、那覇市内

 強烈な弾圧

 伊佐浜の土地闘争を体験したことが、56年7月、米軍の軍用地料一括払い(プライス勧告)に反対する「四原則貫徹県民大会」への参加にもつながった。

 「四原則貫徹県民大会」の当日、琉大生によるデモ隊は、整然と琉球大学(首里城跡)を出発し、首里観音堂を経て、安里に来た。安里十字路には本土からの帰省学生がいて、琉大デモ隊の中にもぐり込んで米軍へ抗議し「ヤンキー・ゴー・ホーム」のシュプレヒコールを始めた。デモ隊ではあらかじめ「ヤンキー・ゴー・ホーム」だけはやらない約束をしていたはずだった。しかし、安里から那覇高校会場へと移動していったが、その時点で統制不能に陥っていた。

 この「四原則貫徹県民大会」に参加した後、ぼくも含めて7人の琉大生が退学や謹慎の処分を受け、「第2次琉大事件」と呼ばれた。処分された学生7人のうち、4人が「琉大文学」の同人だった。

 琉大生7人への処分が決まった時、ぼくは第2回原水禁長崎大会に行っていた。大会に参加し、沖縄へ帰ってきた後、1956年8月17日、一人だけ琉大に呼び出され、退学処分の通告を受けた。場所は琉大本館で出席者は安里源秀学長、仲宗根政善副学長、翁長俊郎事務局長、仲村盛茂学生課長だった。

 安里学長から処分通告書が手渡された。ぼくは立ち上がり「理由をお聞かせください」と聞いた。事務局長は「通告書の手渡し」「終わり」とだけ伝えた。ほんの数分のことだった。

 琉大からの帰り際、本館の石段を下りようと振り返って本館を見ていたら、西側のドアが開いて学生課長の仲村先生が出てきて、小手を振っていた。涙をふいている様子だった。仲村学生課長には、デモの許可を得る際に、たびたび指導を受け、親しい関係にあった。温厚な人柄であった。

 退学処分を受けた時は苦しかった。頭部に円形脱毛症が3カ所も発症するほど、精神的にも肉体的にも打ちのめされた。学生への処分を含め、米軍による弾圧が強まった時期に島ぐるみ闘争は沈滞もした。米軍の弾圧処分は、それほど強烈だったことが分かる。

 退学処分の後、ぼくは仲宗根副学長らの支援で日本大学に転学できた。日本大学を卒業し、59年に沖縄へ帰ると、米国民政府から就職活動の妨害も受け、一時は教職に就くことをあきらめた。そうした中、沖縄教職員会の屋良朝苗さん、喜屋武真栄さんの支援があり、母校・首里高校の国語教師として教壇に立てた。

 真の名誉回復は

 「第2次琉大事件」から51年後の2007年、学生への処分が米側の圧力で行われ、誤りだったとして、第2次琉大事件の処分取り消し式が行われた。しかし、ぼくは出席しなかった。その理由として学長あてに「私達への不当弾圧はアメリカ軍政当局によるものであり、アメリカの占領支配が終わるとき、真の意味での名誉回復ができると考えています」など記したコメントを送った。

 米統治下を振り返り「琉大文学」とは何かと問われれば、途方もない青春の発露かなと考える。

 日本への復帰から49年が経過し、今の沖縄はますます米軍基地が強化されている。特に対中国の前線としての沖縄の軍事基地化が進んでいる。

 あの時代を生きた者として、コメントを求められたならば、こう伝えたい。

 沖縄の若者たちへ。

 今、沖縄は保守化への同調圧力が強まってきて息苦しい世の中になった。若者たちよ。だからこそ、時代状況を真正面から見据え、洞察力を磨いてほしい。そのためには、良き友、良き師、良き本に出会う努力をしてほしい。 (談)
 
 きしゃば・ちょうじゅん 1934年、南風原町兼城生まれ。首里高校を経て琉球大学国文科入学。「琉大文学」同人。日本大学国文科卒業。高校の国語教師や県高教組委員長などを務めた。著書に俳句集「沖縄の四季」やエッセー集「新沖縄風物誌」など。