沖縄戦では少年少女も地上戦に巻き込まれました。生と死が紙一重の戦場を生き抜いたかつての少年少女が、自身が体験した沖縄戦を語ってくれました。(証言した戦争体験者の年齢は紙面掲載当時のものです)
沖縄戦の記録映像でたびたび映し出される「震える少女」。沖縄戦当時6歳だった浦崎末子さん(81)は、終戦から74年たった2019年6月に、長い沈黙を経て「これは私だ」と名乗り出ました。銃弾が飛び交う戦場を逃げ惑い、家族4人を失った過酷な沖縄戦体験を語りました。
◇ ◇
3男3女の三女として高嶺村(現糸満市)与座で生まれました。沖縄戦当時、海軍の電波探知機部隊が駐屯していた与座岳では日米両軍が激しく戦いました。
私は母と姉、弟と4人で与座にあった実家の墓を避難壕代わりに身を隠していました。やがて隣の家の墓が砲弾を受けたことを知って墓を出ました。
逃げている最中、母が米軍の銃撃によっておなかを負傷して歩けなくなり、5歳の弟だけを残して逃げるように告げました。母は死ぬことを覚悟していたんでしょう。母や弟と別れ、15歳上の姉と2人で泥まみれになって逃げました。
その後、母と弟の安否を気にかけて様子を見に戻った姉を待っている時に米兵に捕らわれました。米兵を見るのは初めてで、青い目が怖くてぶるぶる震えていました。ビスケットを差し出されましたが手をつけませんでした。「アメリカーからもらう物には『毒が入っている』」と聞いていたからです。
私たちはトラックに乗せられ、玉城村(現南城市)の収容所に向かいました。その途中で終戦を知りました。その後、越来村(現沖縄市)のキャンプ・コザに移動し、そこで別れた母と弟と再会することができました。また生きて会えるとは思いませんでした。母と弟は私と姉と別れた後、避難した親戚の墓で米軍のガス弾を受けたそうです。弟は後遺症で衰弱していました。
おなかを負傷して歩けなかった母に代わり、私が食料を探し回りました。木片をヘラ代わりにして畑を掘って食べられるものを探しました。芋のかすを掘り起こして食べて飢えをしのぎました。
その後、弟は満足な治療を受けられないままキャンプ・コザで息絶えました。弟は病床で「オーオーオー」とうなって死んでいきました。防衛隊に召集された父と兄、さらには戦時中に受けた傷がもとで姉も亡くしました。
戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはいけない)。
◇「震える少女の物語 戦世と家族の歩み」(2019年9月28日付)より抜粋
多くの戦争体験者が戦場で人が殺されるところや死体など悲惨な光景を目の当たりにしました。普段の生活では体験しないような強い衝撃を受けた時、心に傷が残ります。心の傷は普段は忘れているように見えても心の中に存在し続け、米軍の戦闘機の音を聞いたり、花火を見ることによって過去の記憶がよみがえることがあります。これを心的外傷後ストレス障害(PTSD)といいます。
医師の調査によると沖縄戦体験者の約4割がPTSDを発症しているか、発症する可能性が高い深刻な心の傷を抱えているといいます。心に深い傷を抱えながらも、基地問題や戦争へとつながる動きに危機感を覚え、戦争体験を次世代に伝えようとする人もいます。