沖縄戦では少年少女も地上戦に巻き込まれました。生と死が紙一重の戦場を生き抜いたかつての少年少女が、自身が体験した沖縄戦を語ってくれました。(証言した戦争体験者の年齢は紙面掲載当時のものです)
豊見城村(現豊見城市)渡橋名で生まれた高良健二さん(89)は県立二中1年のときに10・10空襲に遭いました。日本兵にスパイ容疑をかけられたこともあります。「運良く生き残れた」という戦時中の体験を振り返りました。
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3歳で母を、小5で父を病気で亡くし、祖母と妹、親戚と一緒に暮らしていました。
1944年4月、私は親戚の家に下宿しながら那覇市の県立二中に進学しました。戦況は次第に悪化し、授業の代わりに陣地構築に駆り出されるようになりました。軍国教育を受けてきた私は「一億一心火の玉だ」と防空壕掘りに励みました。
当時、県立二中の生徒は通信隊、鉄血勤皇隊、初年兵として戦場に送り出されましたが、わずか1年の年齢差で私たちは戦地に行かずに済みました。
44年10月10日の早朝、学校に行く準備をしていると空いっぱいの米軍機が次々と爆弾を落としました。逃げ惑い、親戚とはぐれた私は口の開いた墓を見つけて避難し、一晩過ごしました。翌日、変わり果てた那覇から渡橋名に戻りました。
渡橋名では昼は壕に避難し暗くなると集落に戻って食料を取りに行く生活でした。ある月の晩、友人と食料を取りに行ったとき、集落の端の家にみんなで集まって軍歌を歌ったりハーモニカで習ったばかりのモールス信号を吹いて遊んでいました。
すると日本兵数十人が屋敷に上がり込んで、私たちを取り囲んで銃剣を突きつけました。「この家から盛んに『ピーピピピー』と通信している音がした。スパイがいるから殺してやる」と日本兵は私たちに迫りました。誤解を解くと、日本兵は引き上げていきました。銃剣を突きつけた日本兵の中には顔見知りの人もいました。戦では人を疑う心が強くなる。同じ日本人でも疑います。
避難していた壕は軍が使うので出て行くよう日本兵に命令され、近所の人たちは南部に避難しました。私たちは足の悪い祖母を置いておけず、渡橋名近くの山に掘った壕に身を寄せていましたが、米兵に壕の中にガス弾を撃ち込まれ、息ができなくなって出たところを捕虜になりました。
私たちは糸満の潮平から船で北谷に行き、安谷屋(今の北中城村安谷屋)の収容所で1カ月過ごしました。その後、金武の中川にあった収容所に移り、そこで祖母が亡くなりました。
1年早く生まれていたら私は戦場に行っていたし、南部に逃げていたら弾に当たって死んでいたかもしれません。生きて故郷に帰ってこれたのはたまたま運が良かっただけです。
戦争は良い人でもみんな心が鬼になります。私たち体験者が話をできるのもあとわずか。若い人に平和のありがたさを伝えていかなくてはならない。そして世界から戦争をなくしてもらいたいです。
◇「未来に伝える沖縄戦」(2019年8月14日付)より抜粋
沖縄戦当時、軍事機密が漏れるのを恐れた日本軍は住民をスパイ視しました。
当時の沖縄では陣地構築や飛行場建設に大人から子どもまで多くの住民が動員されました。兵隊が民家を使用するなど軍民が入り混じった状態でした。友軍という立場の日本軍は住民に対して差別意識を持ち、信用できない存在として扱います。沖縄戦では離島も含め、スパイの疑いで日本軍による住民虐殺が起こりました。