6月は学校の平和学習で戦争体験者の話を聞く機会も多いでしょう。あの悲惨な戦争が起きる前、沖縄の子どもたちはどんな暮らしをしていたのでしょうか。
大正生まれで、積徳高等女学校出身者でつくるふじ同窓会会長の新垣道子さん(88)=浦添市=は、軍歌や唱歌を口ずさむのが好きな少女でした。授業がなくなり、日本軍の飛行場建設に駆り出されても「お国のためだから」と、疑問に思わなかったそうです。
軍国少年だった瑞慶覧長方さん(82)=南城市=は「大きくなったら兵隊になりたかった」と言います。でも、戦火の中で家族と逃げ惑いながら見たものは、恐ろしい光景でした。
戦争は子どもたちから何を奪ったのでしょうか。新垣さん、瑞慶覧さんの話や当時の写真から、一緒に考えてみませんか。
「お国のため」疑問持たず
積徳高等女学校同窓会会長 新垣道子さん(88)
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《実家は那覇市西新町、今のパシフィックホテル沖縄辺りにあり、潮の香りが漂っていました》
子どもの遊びといえば、石をおはじきのようにして遊ぶ石なーぐーや石蹴り。お手玉やまり突きもした。周辺は倉庫街で、港から出荷される前の黒砂糖のたるが保管されていた。かくれんぼをしながらくぎでたるに穴を開けて、こっそりなめることもあった。私はゆーあしばー、今で言うと、おてんばだったと思う。友達とよく遊んだ。
《1940年に沖縄家政高等女学校(43年に私立積徳高等女学校へ改名)入学。セーラー服と革靴に心が躍りました。翌年から戦争の足音が近づきます》
2年生の時、海軍にいた親戚が乗る軍艦が与那原に寄港すると連絡があった。父とおじさんと軽便鉄道に乗って会いに行くと、海の向こうにねずみ色の船がいっぱい泊まっていた。12月に日本軍による真珠湾攻撃があった。
英語の授業はなくなり、軍の小禄飛行場の建設作業に朝から動員されることもあった。上はセーラー服、下はもんぺ姿。土や石をざるに入れてリレーみたいに運んだ。お国のためだから難儀とも思わなかった。
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4年生になると託児所の実習があった。オルガンを弾き、歌ってあげると、子どもたちはとても喜んだ。学校の先生にもなりたいと思った。友達は軍のため看護婦になると言った。とにかく「軍のため、お国のため」という時代だった。
《44年3月に卒業。東京にある薬学の専門学校に進学が決まりました》
入学式のため、那覇から鹿児島へ船で向かった。軍隊に召集された沖縄の男性たちも乗っていた。おじさんたちが方言で話すと、兵隊にひどく殴られた。「なぜ沖縄の人が、こんなにばかにされないといけないのか」と悲しくなった。
船団の一隻が魚雷を受け、窓から船の真ん中が真っ二つに割れるのが見えた。怖くて船底で浮袋をじっと押さえた。
東京でも授業は半分なくなり、軍需工場みたいな所に手伝いに行かされた。硫酸の入った大きな槽をはしごの上からチェックするのだが、ある日、人が落ちて亡くなった。しぶきが上がってやけどをする人もいた。「何でこんな学校に来たのか」と何度も後悔した。
空襲のサイレンが鳴ると防空ずきんをかぶり、見知らぬ土地で防空壕を探す。地面に伏せても風圧で体が圧迫されて怖かった。
那覇の実家は焼かれ、祖母も亡くなった。後輩は看護要員に動員された。日本軍の手伝いをして命を落とした卒業生もたくさんいた。伊江島出身の同級生は女性なのに白い鉢巻きに軍服を着て戦車に体当たりして亡くなった。こんな恐ろしい死に方があっていいのだろうか。
ニュースで紛争や内戦に巻き込まれた外国の子どもたちを見ると「沖縄と同じ」と悲しくなる。辺野古に米軍基地を造る計画があるが、基地があるがゆえに狙われるのではないか。また戦争が起こらないか心配だ。沖縄ばかりを犠牲にするのはもう勘弁してほしい。戦争を風化させてはいけない。平和が一番だ。
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あらかき・みちこ
1925年生まれ。戦後は小学校教員などを務めながら、高校教員の夫と二人三脚で子ども5人を育て、孫7人、ひ孫3人に恵まれた。同窓生の模合では思い出話や編み物を楽しむ。
うそ重なった悲劇
元県議会議員 瑞慶覧長方さん(82)
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大里第二国民学校2年のとき、教科書が「ススメ ススメ 兵隊ススメ」と軍国調だったことを覚えている。5、6年の社会の教科書には「東南アジア諸国は資源が豊富だが、技術が遅れている。だから、日本が開発をして、大東亜共栄圏を作る」と書いてあった。
大きくなったら兵隊になりたい、沖縄出身だから大将は無理だけど、中将か大佐にはなれるだろうと考えていた。ユウナの木で作った木刀を軍隊と同じように、赤い色の帯に差して、兵隊ごっこで遊んでいた。
《1944年、沖縄本島を含む南西諸島に第32軍が創設されました》
6年生のころには、学校は兵舎になり、授業はかやぶき屋根の村屋(むらやー)で行われた。授業は午前で終わり、午後は生徒全員が陣地構築に駆り出されるようになった。
上級生の男生徒が土を堀り、女生徒が掘り出された土を運び出す。下級生は、壕の崩落防止用に使うリュウキュウマツの皮をはぐ。作業は兵隊や同級生と冗談を言い合い、国のためにと勇んでやっていたから、義務感や強制感はなかった。
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《45年3月23日、米軍の攻撃が始まり、生活が一変します》
空襲と艦砲射撃が激しくて、予定されていた修了式、卒業式が中止になった。母親と妹と弟の4人で、壕に避難した。27日の空襲で家も何もかも焼かれた。昼は壕でおとなしくして、夜、艦砲射撃の中、食料の芋を採りに出る生活。それでもまだ良かった。
5月23日、中部戦線の敗残兵がやって来て、壕から出ろと言われた。抵抗する母に、兵隊は「軍の言うことを聞かないのは天皇の言うことを聞かないことだ。それは売国奴だ。切ってやる」と言って、本当に日本刀を抜いて殺そうとした。
《壕を追われた瑞慶覧さんたちは、大里から真栄里、真壁、米須と、本島南部をくの字型に逃げ回り摩文仁にたどり着きました》
「南が安全」だと大本営発表があったから、南に逃げたけど、実際はそこが一番ひどかったんだよね。砲弾が飛び交う中を辺り一面に折り重なる死体に隠れながら逃げて、追い詰められたのが摩文仁だった。
6月20日だったかな。白旗を持った日本人が「安全だから捕虜になれ」と言いに来た。でも、日本兵が「売国奴」と叫んでその人の首をはねてしまった。しばらくして、米軍の機銃と火炎放射器による攻撃が始まった。
自分たちは、気付けば崖の下に逃げ、岩の間に隠れていた。朝昼晩、米軍が「出てこい、心配ない」と呼び掛けてくる。7日目、軍国少年として洗脳されていた自分に、食べたいという本能が勝った。そして、自分を先頭に家族全員が外に出て、米軍に保護された。沖縄戦は、教育のうそや大本営のうそなど、悪いことが全部重なって起きた悲劇中の悲劇だった。
僕たちはいつの間にか軍国主義教育をされて、気が付くと、後戻りできなくなっていた。地域も国も家庭も、大人と子ども同士でも話し合うこと、時の権力に左右されて間違った方向に走らないことが大事だ。平和を守るために、戦争に巻き込まれない世の中をつくる努力をしてほしい。
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ずけらん・ちょうほう
1932年生まれ。南城市(旧大里村)出身。生物、化学の教員を経て、県議会議員。現在は農業の傍ら、趣味で多肉植物を育てている。4人の子どもと8人の孫がいる。
(2014年6月掲載)
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