継ぐ沖縄戦の記憶 焼け野原歩き続けた 嘉納初子さんの体験


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

沖縄おきなわでは日本にほんぐんべいぐんたたかった戦争せんそうがありました。沖縄おきなわせん組織そしきてき戦闘せんとうわったとされるが6がつ23にち慰霊いれいです。沖縄おきなわせんではおおくのどもや女性じょせい、お年寄としよりが戦争せんそうまれてくなりました。慰霊いれいまえに、沖縄おきなわせん悲劇ひげき二度にどかえさないために、一緒いっしょ平和へいわについてかんがえてみませんか。

嘉納かのう初子はつこさん(86)=沖縄おきなわ=の故郷こきょう高嶺たかみねそんげん糸満いとまん高嶺たかみね)は沖縄おきなわせん激戦げきせんとなりました。その直前ちょくぜん初子はつこさん一家いっか本島ほんとう北部ほくぶ避難ひなんします。当時とうじ体験たいけんを、沖縄おきなわ市立しりつ美里みさとちゅうねん栄野比えのび沙奈さなさん(14)と識名しきなさん(14)、鉢嶺はちみねりょうさん(14)の3にんきました。

戦中戦後の記憶をたぐり寄せながら語る嘉納初子さん=2019年5月11日、沖縄市内

 

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初子はつこさんは両親りょうしんときょうだいの家族かぞくにんらしていました。太平洋戦争たいへいようせんそうはじまったのは高嶺たかみね国民こくみん学校がっこうねんのころ。当初とうしょは「いくさとお外国がいこくきていることだ」とかんじていました。

集落しゅうらくちかくの与座よざだけには日本にごんぐん配備はいびされていたため、どもたちはみずくみをしたり、兵隊へいたい陣地じんちごうほりりを手伝てつだったりする「勤労きんろう奉仕ほうし」をさせられるようになりました。

学校がっこう授業じゅぎょうわりに「軍事ぐんじ教練きょうれん」がえました。「登校とうこうまえに1年生ねんせいから6年生ねんせいまでが交互こうごに、わらの人形にんぎょう竹槍たけやりくの。『エイヤー』ってね」。初子はつこさんの体験たいけんき、おどろいた表情ひょうじょうせた栄野比えのびさん。識名しきなさんと鉢嶺はちみねさんもじっとみみかたむけます。

空襲くうしゅうはげしくなったことから、1945ねんがつ下旬げじゅん初子はつねさん一家いっか本島ほんとう北部ほくぶへの避難ひなんめます。ちち防衛ぼうえいたいられ、あに宮崎みやざきけん疎開そかいしていました。初子はつこさんははは芳枝よしえさんとおさないきょうだいの家族かぞくにんで、村役場そんやくば用意よういしたトラックにみました。

しかし、トラックにれたのも嘉手納かでなまで。そこから初子はつねさんはおとうと背負せおい、芳枝よしえさんも生後せいごカ月かげつおとうとをおぶって両手りょうて荷物にもつち、べいぐん砲撃ほうげき野原のはらとなった嘉手納かでなからきた目指めざしました。べいぐん機銃きじゅう掃射そうしゃけるため、にっちゅうやまかくれてよる移動いどうつづけ、4日よっかかけて大宜味おおぎみそん津波つはまでのやく60キロをあるとおしました。

故郷こきょう高嶺たかねそんげん糸満いとまん)からげ、久志くしそんげん名護なご)の国民こくみん学校がっこうかくれていた嘉納かのう初子はつこさん(86)の家族かぞくにんは1945ねんがつ25にち米兵べいへいつかり金武きんそん宜野座ぎのざげん宜野座ぎのざそん)の収容しゅうようじょれてかれました。

収容しゅうようじょでは、作業さぎょうをすると食券しょっけんがもらえ1人前にんまえ食事しょくじ交換こうかんできました。はは芳枝よしえさんはおさないきょうだいをていたので、作業さぎょう初子はつこさんだけ参加さんかしました。かえった食料しょくりょう家族かぞくひとくちずつけてべます。「ひもじいおもいをした」と収容しゅうようしょでも空腹くうふくくるしみます。

ある収容しゅうようじょなかったひとが、防衛ぼうえいたいとして戦地せんちったちち次郎じろうさんをたとい「はげしい戦争せんそうでもうきていないだろう」と芳枝よしえさんにはなしました。次郎じろうさんがもどってくることはありませんでした。

初子はつこさんは戦後せんご生活せいかつやきょうだいの学費がくひかせぐためみの家事かじ手伝てつだいなどではたらきます。「本当ほんとう高校こうこう卒業そつぎょうして看護かんご学校がっこう先生せんせいになりたかった」とかします。初子はつこさんは生活せいかつのため進学しんがくをあきらめました。

その、きょうだいがそれぞれ家庭かていち、初子はつこさんも結婚けっこんしてども4にんまごにんめぐまれました。

ある戦争せんそう学校がっこうけなかったひと対象たいしょうにした中学校ちゅうがっこう無料むりょうじゅく)のにゅうがく案内あんないとどきます。息子むすこ英明ひであきさん(56)のすすめもあり2013ねんがつ、80さい念願ねんがん中学生ちゅうがくせいになりました。そのときともまなんだ中学ちゅうがく友達ともだちとはいまでもあそびになかです。

初子はつこさんのはなしき、識名しきなさんと鉢嶺はちみねりょうさんが戦争せんそう体験たいけんしていないひと一番いちばんつたえたいことや沖縄おきなわせんまなんだことをたずねました。初子はつこさんは「はげしい地上ちじょうせん沖縄おきなわであったことをおぼえておいてほしい」とうったえます。平和へいわ時代じだいつづくために「戦争せんそうになろうとしたら戦争せんそうめられるよう、世界中せかいじゅうくに仲良なかよくしてほしい」と若者わかもの未来みらいたくしました。

 

(2019ねんがつ26にち掲載けいさい

 

国民こくみん学校がっこう

1941ねんがつまで、小学生しょうがくせいかよ学校がっこうは「尋常じんじょう小学校しょうがっこう」と ばれていました。しかし、同年どうねんがつ国民こくみん学校がっこう」に名前なまえわります。これまでの初等しょとうねん小学校しょうがっこうねん)にくわえ、高等こうとうねん中学校ちゅうがっこうねん)までのけい年間ねんかん義務ぎむ教育きょういくとなりました。現在げんざい小学校しょうがっこうねんせい中学校ちゅうがっこうねんせいは47ねん導入どうにゅうされました。

 


 

~82さい中学生ちゅうがくせい 初子はつこさんのあゆみ~

沖縄おきなわせんまな機会きかいうしなった初子はつこさんは、80だい中学生ちゅうがくせいになりました。これまであゆんできたみちのりを、絵本えほん一部いちぶ紹介しょうかいします。

はっちゃんが5年生ねんせいのころから、学校がっこうでは防空壕ぼうくうごうづくりやみずはこび、たけやりの突撃とつげき訓練くんれん毎朝まいあさあり、授業じゅぎょうはなくなった。学校がっこう学校がっこうではなくなった。

戦闘せんとうはげしくなり、身着みきのまま糸満いとまんからやんばるへ家族かぞくげたはっちゃん。たどりいたのはひなん小屋ごやとおくでは大砲たいほうおとがドーン、ドドーンとひびいていた。

アメリカぐん兵隊へいたいにみつかり、テント小屋ごやにつれてかれた。戦争せんそうわったけど、おとうさんはかえってなかった。

はっちゃんがはたらかないと生活せいかつができないから、学校がっこうくのを我慢がまんしてはたらいた。おかあさんをすけけ、いもうとおとうとのためにあさからよるまではたらいた。

結婚けっこんしてどもたちがおおきくなり、自分じぶん時間じかんがもてるようになった。まななおしを決意けついし、82さい中学生ちゅうがくせいになった。