沖縄では日本軍と米軍が戦った戦争がありました。沖縄戦で組織的戦闘が終わったとされる日が6月23日の慰霊の日です。沖縄戦では多くの子どもや女性、お年寄りが戦争に巻き込まれて亡くなりました。慰霊の日を前に、沖縄戦の悲劇を二度と繰り返さないために、一緒に平和について考えてみませんか。
嘉納初子さん(86)=沖縄市=の故郷高嶺村(現糸満市高嶺)は沖縄戦の激戦地となりました。その直前に初子さん一家は本島北部に避難します。当時の体験を、沖縄市立美里中3年の栄野比沙奈さん(14)と識名梨未さん(14)、鉢嶺諒真さん(14)の3人が聞きました。
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初子さんは両親ときょうだいの家族8人で暮らしていました。太平洋戦争が始まったのは高嶺国民学校3年のころ。当初は「戦は遠い外国で起きていることだ」と感じていました。
集落の近くの与座岳には日本軍が配備されていたため、子どもたちは水くみをしたり、兵隊の陣地壕堀りを手伝ったりする「勤労奉仕」をさせられるようになりました。
学校の授業が減る代わりに「軍事教練」が増えました。「登校前に1年生から6年生までが交互に、わらの人形を竹槍で突くの。『エイヤー』ってね」。初子さんの体験を聞き、驚いた表情を見せた栄野比さん。識名さんと鉢嶺さんもじっと耳を傾けます。
空襲が激しくなったことから、1945年3月下旬、初子さん一家は本島北部への避難を決めます。父は防衛隊に取られ、兄は宮崎県へ疎開していました。初子さんは母芳枝さんと幼いきょうだいの家族6人で、村役場が用意したトラックに乗り込みました。
しかし、トラックに乗れたのも嘉手納まで。そこから初子さんは弟を背負い、芳枝さんも生後3カ月の弟をおぶって両手に荷物を持ち、米軍の砲撃で焼け野原となった嘉手納から北を目指しました。米軍の機銃掃射を避けるため、日中は山に隠れて夜に移動を続け、4日かけて大宜味村津波までの約60キロを歩き通しました。
故郷の高嶺村(現糸満市)から逃げ、久志村(現名護市)の久辺国民学校に隠れていた嘉納初子さん(86)の家族6人は1945年6月25日、米兵に見つかり金武村宜野座(現宜野座村)の収容所に連れて行かれました。
収容所では、作業をすると食券がもらえ1人前の食事と交換できました。母芳枝さんは幼いきょうだいを見ていたので、作業は初子さんだけ参加しました。持ち帰った食料は家族で一口ずつ分けて食べます。「ひもじい思いをした」と収容所でも空腹に苦しみます。
ある日収容所の中で会った人が、防衛隊として戦地に行った父次郎さんを見たと言い「激しい戦争でもう生きていないだろう」と芳枝さんに話しました。次郎さんが戻ってくることはありませんでした。
初子さんは戦後、生活費やきょうだいの学費を稼ぐため住み込みの家事手伝いなどで働きます。「本当は高校を卒業して看護師か学校の先生になりたかった」と明かします。初子さんは生活のため進学をあきらめました。
その後、きょうだいがそれぞれ家庭を持ち、初子さんも結婚して子ども4人と孫7人に恵まれました。
ある日、戦争で学校に行けなかった人を対象にした中学校(無料塾)の入学案内が届きます。息子英明さん(56)の勧めもあり2013年1月、80歳で念願の中学生になりました。その時、共に学んだ中学の友達とは今でも遊びに行く仲です。
初子さんの話を聞き、識名梨未さんと鉢嶺諒真さんが戦争を体験していない人に一番伝えたいことや沖縄戦で学んだことを尋ねました。初子さんは「激しい地上戦が沖縄であったことを覚えておいてほしい」と訴えます。平和な時代が続くために「戦争になろうとしたら戦争を止められるよう、世界中の国と仲良くしてほしい」と若者へ未来を託しました。
(2019年5月26日掲載)
国民学校
1941年3月まで、小学生が通う学校は「尋常小学校」と 呼ばれていました。しかし、同年4月「国民学校」に名前が変わります。これまでの初等科6年(小学校6年)に加え、高等科2年(中学校2年)までの計8年間が義務教育となりました。現在の小学校6年制と中学校3年制は47年に導入されました。
~82歳の中学生 初子さんの歩み~
沖縄戦で学ぶ機会を失った初子さんは、80代で中学生になりました。これまで歩んできた道のりを、絵本の一部で紹介します。
はっちゃんが5年生のころから、学校では防空壕づくりや水運び、竹やりの突撃訓練が毎朝あり、授業はなくなった。学校は学校ではなくなった。
戦闘が激しくなり、着の身着のまま糸満からやんばるへ家族と逃げたはっちゃん。たどり着いたのはひなん小屋。遠くでは大砲の音がドーン、ドドーンと響いていた。
アメリカ軍の兵隊にみつかり、テント小屋につれて行かれた。戦争は終わったけど、お父さんは帰って来なかった。
はっちゃんが働かないと生活ができないから、学校に行くのを我慢して働いた。お母さんを助け、妹や弟のために朝から夜まで働いた。
結婚して子どもたちが大きくなり、自分の時間がもてるようになった。学び直しを決意し、82歳の中学生になった。