卒業式もなく負傷兵看護 恩納村出身の上原米子さん(92)


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沖縄戦での体験を語る上原米子さん=2018年、本部町の伊豆味小中学校

 名護なごちょうげん名護なご)にあった県立けんりつだいさん高等こうとう女学校じょがっこう在学ざいがくしていたわたしは、看護かんご教育きょういくけ、実習じっしゅうなどをて1945ねんがつ下旬げじゅん本部もとぶちょう八重岳やえだけにあった八重岳やえだけ野戦やせん病院びょういん沖縄おきなわ陸軍りくぐん病院びょういん名護なごぶんいん)に配属はいぞくされました。卒業そつぎょうしきおこなわれないままでした。

 45ねんがつにち以降いこう本部もとぶ半島はんとうめてきたべいぐん日本にほんぐんの「宇土うど部隊ぶたい」が激戦げきせんとなり、次々つぎつぎ負傷ふしょうした日本にほんへいはこばれてきました。

 野戦やせん病院びょういんやまなかにある治療ちりょうしつで、民家みんかからってきたあま使つかってつくった手術しゅじゅつだいがありました。そこに、たまあしたりひざからしたをぶらぶらさせた日本にほんへいはこばれます。すると日本にほんへい麻酔ますいをしないままいとのこであしられました。兵隊へいたい弱音よわねかず「ひざがぶらがっておもかった。やっとかるくなった」と冗談じょうだんったんです。日本にほん兵隊へいたいさんはつよいな、とおもいました。とした部分ぶぶんやまなかめました。こうした仕事しごともさせられました。

上原米子さんが描いた絵。八重岳野戦病院から撤退する際、日本兵に銃を向けられることもあった(本人提供)

 4がつ16にち撤退てったい命令めいれい八重岳やえだけ野戦やせん病院びょういんはなれることになります。げる途中とちゅうたま突然とつぜんんできました。まわりにはながしているひとがいました。わたし右足みぎあし親指おやゆびから小指こゆび破片はへんはいり、ろうとしてもれません。看護かんごさんが包帯ほうたいいてくれました。

 げる途中とちゅう一緒いっしょ移動いどうしていた衛生えいせいへい班長はんちょうが「もうおれたちはたすからない。一緒いっしょのう」とって、自分じぶんっているしゅりゅうだんしました。そのときわたし友達ともだちが「班長はんちょう、なぜそんなことをするんですか。わたしにたくない。にたかったら一人ひとりんでください」とさけびました。どもが大人おとなかって口答くちごたえしたら大変たいへん時代じだいです。友達ともだちのおかげでわたしたちはたすかりました。ほかにも、日本にほんへいから、あしをけがしたわたしあしまといだとわれじゅうけられたり、一緒いっしょげていた看護かんごのおねえさんがまえ即死そくししたり、なん直面ちょくめんしました。

 戦争せんそうというのはこういうものです。あに戦争せんそうくなり、あにどもたちはわたしそだてました。大黒柱だいこくばしらうしなうのはだいへんなことです。このことは家族かぞくうしなったひとしかからないですよ。

 (2018ねんがつ13にちづけ未来みらいつたえる沖縄おきなわせん」より要約ようやく

 

宇土うど部隊ぶたい

 戦況せんきょうにおうじて攻撃こうげきする遊撃ゆうげきせん実施じっしするために1944ねん11がつ本島ほんとう北部ほくぶ配備はいびされた日本にほんぐん部隊ぶたいひとつです。国頭くにがみ支隊したいともいます。支隊したいちょう宇土うど武彦たけひこ大佐たいさ名字みょうじって、宇土うど部隊ぶたいばれていました。宇土うど部隊ぶたい兵士へいし住民じゅうみんから食料しょくりょううばうなどの横暴おうぼう事件じけん報告ほうこくされています。