名護町(現名護市)にあった県立第三高等女学校に在学していた私は、看護教育を受け、実習などを経て1945年3月下旬に本部町八重岳にあった八重岳野戦病院(沖縄陸軍病院名護分院)に配属されました。卒業式も行われないままでした。
45年4月8日以降、本部半島を攻めてきた米軍と日本軍の「宇土部隊」が激戦となり、次々と負傷した日本兵が運ばれてきました。
野戦病院は山の中にある治療室で、民家から持ってきた雨戸を使って作った手術台がありました。そこに、弾が足に当たり膝から下をぶらぶらさせた日本兵が運ばれます。すると日本兵は麻酔をしないまま糸のこで足を切られました。兵隊は弱音を吐かず「膝がぶら下がって重かった。やっと軽くなった」と冗談を言ったんです。日本の兵隊さんは強いな、と思いました。切り落とした部分は山の中に埋めました。こうした仕事もさせられました。
4月16日、撤退命令が出て八重岳野戦病院を離れることになります。逃げる途中、弾が突然飛んできました。周りには血を流している人がいました。私も右足親指の付け根から小指に破片が入り、取ろうとしても取れません。看護婦さんが包帯を巻いてくれました。
逃げる途中、一緒に移動していた衛生兵の班長が「もう俺たちは助からない。一緒に死のう」と言って、自分の持っている手りゅう弾を出しました。その時、私の友達が「班長、なぜそんなことをするんですか。私は死にたくない。死にたかったら一人で死んでください」と叫びました。子どもが大人に向かって口答えしたら大変な時代です。友達のおかげで私たちは助かりました。他にも、日本兵から、足をけがした私が足手まといだと言われ銃を向けられたり、一緒に逃げていた看護婦のお姉さんが目の前で即死したり、何度も死と直面しました。
戦争というのはこういうものです。兄は戦争で亡くなり、兄の子どもたちは私が育てました。大黒柱を失うのは大変なことです。このことは家族を失った人しか分からないですよ。
(2018年6月13日付「未来に伝える沖縄戦」より要約)
宇土部隊
戦況せんきょうに応じて攻撃する遊撃戦を実施するために1944年11月、本島北部に配備された日本軍部隊の一つです。国頭支隊とも言います。支隊長の宇土武彦大佐の名字を取って、宇土部隊と呼ばれていました。宇土部隊の兵士が住民から食料を奪うなどの横暴な事件も報告されています。