「障がい者は施設」でいいの? 保障されなかった教育<求めたものは>9


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当時の沖縄身体障害者更生指導所=1966年5月(沖縄県公文書館所蔵)

 復帰前の1965年、琉球政府厚生局の調査で把握されていた沖縄全体の視覚や聴覚、肢体不自由などの身体障がい者数は6760人だった。このうち障害者手帳の交付を受けたのは約3分の1。米統治下で障がい者福祉の遅れが課題となっていた。

 那覇市首里石嶺町に整備された身体障がい者の治療・指導施設「沖縄身体障害者更生指導所」は復帰前唯一、作業療法室や職業訓練室を備えた施設だった。

 期待された施設だったが、課題もあった。「寮の部屋は床から高さのある畳間だったので、車いすから降りて、はうように移動した」。17歳の時、クラブ活動中に鉄棒から落ち下半身まひの障がいを負った那覇市身体障害者福祉協会会長の高嶺豊さん(72)は振り返る。「当時は車いすで生活するには困難な環境で、外出時は松葉づえで移動せざるを得なかった」

(左)長位鈴子さん (右)高嶺豊さん

 1951年、戦火で閉校していた県立盲聾唖(ろうあ)学校が沖縄盲聾唖学校と認可されて開校した。戦後の特別支援教育の始まりだ。一般の教育からは遅れ、戦後6年が経過しての再出発だった。

 だが、重度障がい児は「就学猶予・免除」を受けるなど、養護学校が義務化される79年まで、教育を受ける機会を保障されていなかった。

 72年の復帰を機に、沖縄の障がい者福祉は日本国内で取り入れられていた施設入所型に移行した。

 県自立生活センター・イルカ代表の長位鈴子さん(58)は就学猶予・免除を受けた一人。7歳から9年間を沖縄整肢療護園で過ごした。「以前は整肢療護園を含め数えるほどだった施設数は、復帰後どんどん増えていった」。子どもを施設に預けたまま、一度も面会に来ない家庭もあった。「どうして障がい者は地域で暮らせず、施設に集められるのか」。幼い頃から疑問を持ち続けた。

 一方、復帰後には他地域の当事者団体との交流や情報共有は促進された。70年~80年代にかけ、脳性まひ者らを中心とした「青い芝の会」が、全国で障がい者運動を展開した。この運動に影響を受け、県内でも自立生活を目指す当事者らが声を上げた。

 2002年、国の障害者基本計画で「施設から地域生活への移行の推進」の方針が示された。各地域で自立生活を送る人々も出てきたが、「障がい者は施設」という一般的な認識は根強く、保護者や関係者の地域福祉への理解が今後の課題だ。

 復帰から来年で半世紀。「障がい者のことを施設で保護されるべき、かわいそうな存在だと思っていませんか」。誰もが地域で暮らせる社会を思い描き、長位さんは問い掛ける。

(吉田早希)