6月23日は沖縄戦で亡くなった人々のめい福を祈り、恒久平和を願う慰霊の日。沖縄で戦争がありました。日本と米国が戦った太平洋戦争の戦場の一つとなってしまったためです。沖縄戦はなぜ起こったのでしょう。そして、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦の実態はどのようなものだったのでしょうか。
Q2 なぜ日本とアメリカは戦争したの?
日本の攻撃が発端
1937年7月、中国・北京郊外で起きた発砲事件がきっかけとなり、日本と中国の全面戦争が始まりました。戦争が長引き、行き詰まった事態を変えようとした日本はフランス領インドシナに進駐しました。その結果、日本の経済活動を封じ込めようとしたアメリカやイギリスなど欧米諸国との対立を深めました。
41年12月8日(日本時間)に日本軍がマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾に泊まっていた米軍の艦船を襲撃したことで、沖縄も戦場になっていくアジア・太平洋戦争が始まりました。
Q2 なぜ沖縄が戦場になったの?
日本本土の「捨て石」に
1943年9月、日本は本土を守るために確保しなければならない区域として「絶対国防圏」を決めました。千島列島からマリアナ諸島、ミャンマーなどを結ぶ広大な防衛線で、戦争のための資源などを確保するのが目的でした。
これによって日本の南西諸島での戦いに備え軍備が強化されました。44年3月に日本軍は第32軍を組織し、制空権を奪い返すために沖縄各地で飛行場を建設します。沖縄本島や周辺離島も含め十数カ所に飛行場を造りました。この年の夏以降、日本軍の部隊が次々と沖縄に入ってきます。沖縄県民を動員した陣地構築も進みました。
一方、米軍の最終目標は日本本土に侵攻して日本を降伏させることでした。その前に沖縄を占領して本土攻撃の拠点を造ろうと、米軍は45年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島の中部西海岸に上陸し、激しい地上戦を展開しました。
強大な兵力を持つ米軍に比べ戦力の劣る日本軍は、沖縄戦を勝ち目のない「捨て石」(大きな目的を達成するために見捨ててしまう犠牲)作戦として、天皇制や本土を守るための時間稼ぎにしました。
Q3 何人ぐらい戦ったの?
県民は2万人以上
地上戦が始まる1945年3月下旬、沖縄にいた日本軍は約10万~11万人で、このうち2万数千人は沖縄にいる一定の年齢の男子を急遽集めた「防衛隊」や「義勇隊」、今の中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊」でした。対する米軍は当時の沖縄県の人口を上回る約54万人でした。日本本土での戦争を遅らせるための時間稼ぎの作戦を考えていた日本軍は、米軍が沖縄本島に上陸するときも、ほとんど抵抗しませんでした。沖縄本島の中部に築いた陣地で抵抗する考えだったのです。こうして住民の生活の場が戦場となりました。
Q4 兵隊以外も巻き込まれたのはなぜ?
兵力確保のため動員
国同士の戦争では通常、兵隊同士が戦います。しかし、それまでの戦いで日本は負けが続き、戦力はほとんど残っていませんでした。本土決戦に向けて日本軍は足りない兵力や食料などを沖縄県内で調達しようとします。しかも、沖縄が戦場になることが予想されていたにもかかわらず、住民のための十分な避難計画は立てていませんでした。
17~45歳の男性を「防衛隊」、師範学校生、中等学校生、女学生は「学徒隊」として戦闘に参加させました。本島北部や西表島では16~18歳の少年を「護郷隊」としてゲリラ戦に参加させ、法的根拠のないまま集められた一般住民を「義勇隊」として戦闘の後方支援に当てました。
残った老人や女性、子どもたちは、飛行場や陣地を造ったり、食料調達を担ったりしました。住民が多く避難していた本島南部へ日本軍が撤退した結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれることになったのです。
米軍が上陸する前、本島北部へ避難した人々も食料不足からくる栄養失調で亡くなったり、マラリアで亡くなったりする人が大勢いました。
Q5 沖縄の人は何人亡くなったの?
12万2000人を超える
米英軍による無差別攻撃で、県外出身日本兵を上回る多くの一般住民が亡くなりました。県の資料によると沖縄戦の戦没者数は20万656人。そのうち、一般住民は約9万4000人です。県出身の軍人・軍属を合わせると、沖縄の人の犠牲は12万2000人を超えます。県民の4人に1人が亡くなりました。
一般住民の中には、避難していたガマ(洞窟)から戦闘の邪魔になるとして日本軍に追い出され米軍の爆撃に遭い命を落とす人がいました。米軍の協力者(スパイ)と疑われたり、投降しようとしたりして日本兵に殺害される者もいました。
日本軍の命令や誘導で、死ぬほかに方法がない状態に追い込まれ、「集団自決」(強制集団死)で亡くなる人もいました。
宮古・八重山諸島などでも艦砲射撃で大きな被害があり、八重山では日本軍の指示、命令で避難した住民が避難先でマラリアにかかり大勢が亡くなりました。
労働者不足を補うために朝鮮から強制的に連れてこられた人々や台湾の人々も戦場に投げ出され、多くの人が亡くなりました。その中には女性もいました。一部の犠牲者の名前が「平和の碑」に刻まれています。過去の戦争で日本はアジア・太平洋諸国を傷つけました。そのことを今一度心にとどめる必要があります。
Q6 いつ、どうやって終わったの?
6月、司令官の死 区切り
日本軍第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が現在の糸満市摩文仁で自決した日が1945年6月22日の未明(23日説もある)とされています。この日で日本軍という組織での戦いは終了しました。しかしその後も日本軍の抵抗が続いたため、米軍による容赦ない攻撃は続きました。
司令官の自決を知らずに逃げたり隠れたりし続けた人もたくさんいて、6月23日以降に亡くなった人も数多くいます。米軍が沖縄での戦闘の終わりを告げた「沖縄作戦終了」宣言が7月2日、戦争の終わりを示す降伏文書の調印は牛島司令官自決から2カ月半後の9月7日でした。