1945年、沖縄は戦場となりました。戦闘に巻き込まれた住民の中には、ハンセン病を発病し、国や日本軍に無理やり療養所に収容された人々もいました。療養所では、壕堀りや食料確保のための労働を強いられました。入所者にとって、それは体や命を削る過酷な体験でした。
強制収容
ハンセン病の菌はとても弱く、発病するかは栄養や社会状況が関係します。発病すると痛みを感じなくなったり、体が動かしづらくなったりします。国が家族や地域から患者を引き離す「隔離政策」を取ったことで病気への誤解が広がり、患者は強い差別や偏見を受けてきました。1944年、日本軍は兵士に病気がうつることを恐れ、銃を向けて患者を強制的に収容します。定員450人の「国立癩療養所国頭愛楽園」(現・沖縄愛楽園=名護市の屋我地島済井出)は913人に膨らみました。
同年7月、米軍の空襲に備えて、園は入所者に避難壕づくりを命じます。現在も園で暮らす元患者の102歳の女性は当時を語ります。「男性が壕を掘って、私たち女性と子どもは出た土を運んだ。私は両手をやけどして片足は義足だったからよく転んだ。でも、園は『働かざる者食うべからず』と言っていて休むことは許されなかった」
病気で指先や足の感覚を失った入所者にとって、壕堀りは過酷なものでした。貝殻がたくさん埋まる丘をつるはしやスコップで掘ることで、たくさん怪我をしました。感覚がないことで怪我をしても気づきにくく、傷の悪化から指や足を切断した人も出ました。
壕生活
米軍は整然と並ぶ園の建物を兵舎と間違え、激しい爆撃を浴びせました。入所者は壕の中に身を寄せ、攻撃から逃れました。女性は「空襲は朝昼と続いて、じっとしているのが苦しくてたまらなかった」と振り返ります。園では入所者の3分の1が亡くなりました。爆撃での犠牲は1人、288人は壕掘りによるけがの悪化や栄養失調、不衛生な壕生活での赤痢やマラリアが原因でした。
戦後は有効な治療薬が出てハンセン病は治りましたが、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで隔離の対象となりました。102歳の女性も81年間、園外で暮らしたことはありません。回復した今も、病による差別と戦争で負った傷跡という二重の苦しみに耐えて生きています。
病気や障がいのある人、女性や子ども、高齢者。戦争で真っ先に犠牲になるのは弱い立場の人たちです。沖縄戦も例外ではありませんでした。きょう23日は「慰霊の日」。このような悲劇を再び起こさないために、何ができるか考えてみませんか。
(新垣梨沙、上江洲真梨子)
<証言集から>
弱い人は死ぬしかない
空襲警報が発令したら壕に入り、解除になるとまた出てきてということを2、3カ月やった。だけど数年そうした生活だった印象があるね。大変だった。ご飯があっても食べようという気もしないですよ。空襲に追われているんだからね。空襲が終わり、丈夫な人は木材をとってきて、小屋を造っていましたよ。戦争の時は健康ほど良いことはないですよ。手足が悪い人は飢え死にするしかないよ。亡くなる人がたくさんいた。弱い人は死ぬしかない。そんな時代だった。話したくもない。いつの時代でもね元気な人ほど良いことはないですよ。
(匿名女性、1923年生まれ)
神経痛で食べられず
1944年7月くらいから壕を掘った。壕の奥に行くにつれて中は暗くなり、小さいランプを持ってつるはしとスコップを使って掘ったよ。天井が低くてまっすぐ立てないから僕はあぐらをかいたりひざまずいたりして掘った。壕が貫通した時はうれしかった。でも、誰からも感謝されなかった。みんな当たり前としか思わなかった。
10・10空襲の後すぐの頃、神経痛が出た。この時が一番つらくてしょっちゅう泣いた。みんな一生懸命働いているから休んでいいよ、と言う人なんていない。にぎり飯があったけど神経痛がきつくて食べきれずに捨てたよ。
(故・宮城兼吉さん、1928年生まれ)
出典:沖縄愛楽園自治会発行「沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編」
隔離の歴史を展示 沖縄愛楽園交流会館
ハンセン病は完治しているものの、現在の沖縄愛楽園には50代から106歳までの140人(2019年6月14日時点)が暮らしています。日本では1907~96年まで強制的にハンセン病患者を隔離する法律「らい予防法」がありました。そのため、ハンセン病患者に対する差別と偏見が生まれ、法律がなくなった今も、園で暮らす人が多くいます。
園内に2015年「沖縄愛楽園交流会館」ができました。戦時中のハンセン病患者の苦しみや社会と隔離され生涯を終えた彼らの声、写真などの資料が展示されています。
環境が整った今の日本で、ハンセン病になることはありません。同館の辻央学芸員は「誰だって差別される、する立場に立つ時がある。その時に立ち止まって『本当にそうなのか?』と考えてみることが重要だ」と語りました。
愛楽園と沖縄戦
名護市の屋我地島済井出にある国立療養所「沖縄愛楽園」は1938年に「国頭愛楽園」として開園しました。米軍が大規模に行った44年の空襲「10・10空襲」で初めて爆撃を受けます。
園内には今も戦争の傷痕が残っています。園内の水タンクや38年の開園当初からある壁には、米軍から受けた銃撃の痕があります。当時の早田皓園長が命じてつくらせた壕「早田壕」は今も見られます。入所者自らが掘った、長くて中でつながる壕は当時横穴を50以上つくったと言われています。
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午前10時~午後4時半、入館無料。月曜と祝日、年末年始は休館。問い合わせ(電話)0980(52)8453。
(2019年6月23日掲載)