【ワークシート付き】戦争と差別、二重の苦しみ ハンセン病元患者の沖縄戦体験


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

1945ねん沖縄おきなわ戦場せんじょうとなりました。戦闘せんとうまれた住民じゅうみんなかには、ハンセンびょう発病はつびょうし、くに日本にほんぐん無理むりやり療養りょうようじょ収容しゅうようされた人々ひとびともいました。療養りょうようじょでは、ごうほりりや食料しょくりょう確保かくほのための労働ろうどういられました。入所にゅうしょしゃにとって、それはからだいのちけず過酷かこく体験たいけんでした。

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強制きょうせい収容しゅうよう

ハンセンびょうきんはとてもよわく、発病はつびょうするかは栄養えいよう社会しゃかい状況じょうきょう関係かんけいします。発病はつびょうするといたみをかんじなくなったり、からだうごかしづらくなったりします。くに家族かぞく地域ちいきから患者かんじゃはなす「隔離かくり政策せいさく」をったことで病気びょうきへの誤解ごかいひろがり、患者かんじゃつよ差別さべつ偏見へんけんけてきました。1944ねん日本にほんぐん兵士へいし病気びょうきがうつることをおそれ、じゅうけて患者かんじゃ強制きょうせいてき収容しゅうようします。定員ていいん450にんの「国立こくりつらい療養りょうようじょ国頭くにがみあい楽園らくえん」(げん沖縄おきなわあい楽園らくえん名護なご屋我地島やがじじま済井出すむいで)は913にんふくらみました。

同年どうねんがつべいぐん空襲くうしゅうそなえて、えん入所にゅうしょしゃ避難ひなんごうづくりをめいじます。現在げんざいえんらすもと患者かんじゃの102さい女性じょせい当時とうじかたります。「男性だんせいごうって、わたしたち女性じょせいどもはつちはこんだ。わたし両手りょうてをやけどして片足かたあし義足ぎそくだったからよくころんだ。でも、えんは『はたらかざるものうべからず』とっていてやすむことはゆるされなかった」

病気びょうき指先ゆびさきあし感覚かんかくうしなった入所にゅうしょしゃにとって、ごうほりりは過酷かこくなものでした。貝殻かいがらがたくさんまるおかをつるはしやスコップでることで、たくさん怪我けがをしました。感覚かんかくがないことで怪我けがをしてもづきにくく、きず悪化あっかからゆびあし切断せつだんしたひとました。


ごう生活せいかつ

べいぐん整然せいぜんならえん建物たてもの兵舎へいしゃ間違まちがえ、はげしい爆撃ばくげきびせました。入所にゅうしょしゃごうなかせ、攻撃こうげきからのがれました。女性じょせいは「空襲くうしゅうあさひるつづいて、じっとしているのがくるしくてたまらなかった」とかえります。えんでは入所にゅうしょしゃの3ぶんの1がくなりました。爆撃ばくげきでの犠牲ぎせい1人ひとり、288にんごうりによるけがの悪化あっか栄養失調えいようしっちょう不衛生ふえいせいごう生活せいかつでの赤痢せきりやマラリアが原因げんいんでした。

戦後せんご有効ゆうこう治療ちりょうやくてハンセンなおりましたが、1996ねんに「らい予防よぼうほう」が廃止はいしされるまで隔離かくり対象たいしょうとなりました。102さい女性じょせいも81年間ねんかんえんがいらしたことはありません。回復かいふくしたいまも、やまいによる差別さべつ戦争せんそうった傷跡きずあとというじゅうくるしみにえてきています。

病気びょうきしょうがいのあるひと女性じょせいども、高齢こうれいしゃ戦争せんそうさき犠牲ぎせいになるのはよわ立場たちばひとたちです。沖縄おきなわせん例外れいがいではありませんでした。きょう23にちは「慰霊いれい」。このような悲劇ひげきふたたこさないために、なにができるかかんがえてみませんか。

新垣あらかき梨沙りさ上江洲うえず真梨子まりこ


証言しょうげんしゅうから>

 

よわひとぬしかない

空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいしたらごうはいり、解除かいじょになるとまたてきてということを2、3カ月かげつやった。だけどすうねんそうした生活せいかつだった印象いんしょうがあるね。大変たいへんだった。ごはんがあってもべようというもしないですよ。空襲くうしゅうわれているんだからね。空襲くうしゅうわり、丈夫じょうぶひと木材もくざいをとってきて、小屋こやつくっていましたよ。戦争せんそうとき健康けんこうほどいことはないですよ。手足てあしわるひとにするしかないよ。くなるひとがたくさんいた。よわひとぬしかない。そんな時代じだいだった。はなしたくもない。いつの時代じだいでもね元気げんきひとほどいことはないですよ。

匿名とくめいじょせい、1923ねんまれ)

神経しんけいつうべられず

1944ねんがつくらいからごうった。ごうおくくにつれてなかくらくなり、ちいさいランプをってつるはしとスコップを使つかってったよ。天井てんじょうひくくてまっすぐてないからぼくはあぐらをかいたりひざまずいたりしてった。ごう貫通かんつうしたときはうれしかった。でも、だれからも感謝かんしゃされなかった。みんなたりまえとしかおもわなかった。

10・10空襲くうしゅうあとすぐのころ神経しんけいつうた。このとき一番いちばんつらくてしょっちゅういた。みんな一生懸命いっしょうけんめいはたらいているからやすんでいいよ、とひとなんていない。にぎりめしがあったけど神経しんけいつうがきつくてべきれずにてたよ。

宮城みやぎ兼吉けんきちさん、1928ねんまれ)

出典しゅってん沖縄おきなわあい楽園らくえん自治じちかい発行はっこう沖縄おきなわけんハンセンびょう証言しょうげんしゅう 沖縄おきなわあい楽園らくえんへん

空襲被害を再現した外壁の前に立つ学芸員の辻央さん=名護市済井出の沖縄愛楽園交流会館

 

隔離かくり歴史れきし展示てんじ  沖縄おきなわあい楽園らくえん交流こうりゅう会館かいかん

ハンセンびょうかんしているものの、現在げんざい沖縄おきなわあい楽園らくえんには50だいから106さいまでの140にん(2019ねんがつ14時点じてん)がらしています。日本にほんでは1907~96ねんまで強制きょうせいてきにハンセンびょう患者かんじゃ隔離かくりする法律ほうりつ「らい予防よぼうほう」がありました。そのため、ハンセンびょう患者かんじゃたいする差別さべつ偏見へんけんまれ、法律ほうりつがなくなったいまも、えんらすひとおおくいます。

園内えんないに2015ねん沖縄おきなわあい楽園らくえん交流こうりゅう会館かいかん」ができました。戦時せんじちゅうのハンセンびょう患者かんじゃくるしみや社会しゃかい隔離かくりされ生涯しょうがいえたかれらのこえ写真しゃしんなどの資料しりょう展示てんじされています。

環境かんきょうととのったいま日本にほんで、ハンセンびょうになることはありません。同館どうかんつじあきら学芸がくげいいんは「だれだってべつされる、する立場たちばときがある。そのときまって『本当ほんとうにそうなのか?』とかんがえてみることが重要じゅうようだ」とかたりました。

 

 

あい楽園らくえん沖縄おきなわせん

 名護なご屋我やが地島じじま済井出すむいでにある国立こくりつ療養りょうようじょ沖縄おきなわあい楽園らくえん」は1938ねんに「国頭くにがみあい楽園らくえん」として開園かいえんしました。べいぐんだい規模きぼおこなった44ねん空襲くうしゅう「10・10空襲くうしゅう」ではじめて爆撃ばくげきけます。

 

  園内えんないにはいま戦争せんそう傷痕きずあとのこっています。園内えんないみずタンクや38ねん開園かいえん当初とうしょからあるかべには、べいぐんからけた銃撃じゅうげきあとがあります。当時とうじ早田はやたひろし園長えんちょうめいじてつくらせたごう早田はやたごう」はいまられます。入所にゅうしょしゃみずからがった、ながくてなかでつながるごう当時とうじ横穴よこあなを50以上いじょうつくったとわれています。

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午前ごぜん10午後ごご時半じはん入館にゅうかん無料むりょう月曜げつよう祝日しゅくじつ年末年始ねんまつねんし休館きゅうかんわせ(電話でんわ)0980(52)8453。

(2019ねんがつ23にち掲載けいさい

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