ボリビア沖縄県人会(比嘉徹会長)のオンラインイベント「ボリビアから世界へ」が3月13日に開催された。ボリビア、沖縄、南米、北米などから100人以上が参加し、日本語やスペイン語、ポルトガル語で進行が行われた。
新型コロナウイルス禍で不自由な生活を余儀なくされる中、ボリビアから世界とつながって、お互いに元気でこの状況を乗り切っている様子を伝えようと、イベントを実施した。
イベントでは青年会の活動や各地域の青年会長のメッセージを紹介した。オキナワ移住地を開拓してきた1世の眞栄城徳治さん(93)と、ボリビア日系協会連合会会長に就任した宮城和男さん(71)のインタビュー動画のほか、オキナワ移住地とサンタクルス市の今と昔の変化を写真と動画で紹介した。
県人会の比嘉会長は「1世が日系社会を作り、今は2世が家庭の柱となって頑張っている。将来を担う3世がこれからのボリビア沖縄社会、日系社会を支えていく。若い世代のパワーを育て、世界に羽ばたく人材育成を共に進めたい」と強調した。
ブラジルから参加した新里明さんは「ボリビアの移民の歴史を知ることができた。懐かしい映像も多く、パンデミック(世界的大流行)後にボリビアに行きたくなった」と話した。沖縄から参加した仲村美幸さんは「沖縄に来た県費留学生や研修生たちが参加して運営に関わっている姿を見て感動した」と話した。
(安里玉元三奈美通信員)
2カ月の長旅 水浸しの道 伝染病… 開拓の労苦語る
サイパンで生まれ、沖縄戦を経験し、ボリビアのオキナワ移住地を開拓してきた真栄城徳治さん(93)が、移住前の沖縄での経験、移住後の開拓の苦労など体験を語った。
徳治さんは1927年に恩納村南恩納出身の両親の間の、7人兄弟の次男として生まれた。12歳の時に家族と沖縄に引き上げ、戦時中は鉄血勤皇隊に召集され、日本の敗戦を石川の収容所で迎えた。
戦後は北部農林高校を卒業し、牧港モータープール、那覇中央郵便局で勤務した後、沖縄トヨタで販売・営業を担当した。その頃、新聞でボリビア移民の募集広告を目にして応募し、約4千人の中から第1次移民に採用された。「当時は車が売れず、給料も取れないぐらい不景気の時代で、ボリビアの移民募集があったので一番に希望した。ボリビアに行けば土地が与えられるなんて夢の話だった」と振り返る。
54年6月、27歳の時に第一次移民団として那覇港を出発。約2カ月の長旅を経て、ボリビアのうるま耕地に入植した。開拓の共同作業が始まり、大型井戸が完成するまでリオ・グランデ河の泥水の上澄みを使っていた。グランデ河まで約5キロの道は、3分の1が水に漬かっていた。そのためドラム缶で筏(いかだ)を作り、水がある場所は筏を浮かせて移動したこともあった。
そんな中、原因不明の伝染病が発生した。パロメティーヤ土地へ転住したが安住の地にはならず、再び移動して現オキナワ移住地へ入植した。徳治さんは、第2次移民の宮城チエ子さんとパロメティーヤで結婚し、6人の子宝に恵まれた。チエ子さんが72年に病気で亡くなり、子供が成人後にイダさんと再婚。現在夫婦で暮らしている。
(安里玉元三奈美通信員)