prime

辺土名高校(7)地元の行政、実業へ「人間育成の苗代」<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
創立間もない頃の辺土名高校(画・平良泉幸氏、創立50周年記念誌「波原」より)

 1946年1月、国頭村辺土名の男子部、大宜味村喜如嘉の女子部に分かれて開校した辺土名高校は47年6月、両村間の協議の末、大宜味村饒波(ぬうは)に統合された。大宜味村への高校誘致に尽くしたのが村長の宮里金次郎であった。

 饒波は水田の苗代地だった。宮里は高校の敷地を取得するため地主たちを説得した。「作物の苗圃である美田よりも、まずは人間育成の苗圃の学校誘致が優先さるべきだ」

 妻は女性の地位向上に尽くした宮里悦。長男で琉球セメントの社長、会長を務めた宮里俊一(89)は辺土名高の3期である。

 32年、大宜味村根路銘の生まれ。44年、県立第三中学校に入学。沖縄戦を経て、辺土名高に編入した。卒業後は中学校教員を経て早稲田大学に進学。帰郷後は米国民政府に勤めた後、琉球セメントに入社した。92年、社長に就任。98年に浦添商工会議所会頭となった。

 俊一の弟で36年生まれの宮里昭也は10期。61年に琉球新報に入社し、ジャーナリストの道へ。社長、会長を務めた。

 「人間育成の苗圃」で育った辺土名高の卒業生は北部3村の政治・行政の分野で活躍してきた。

 地元の大宜味村議会議長、平良嗣男(75)は20期。64年、高校3年生の時、東京オリンピックの聖火リレーに参加したことが誇りだ。「塩屋を3キロほど走った。当時は米軍に支配されていた時代。聖火リレーは何物にも代えがたい体験だった」

 卒業後、兵庫県で10年ほど働いた。帰郷後、農協で20年余り務め、議会議員に転じた。現在、北部市町村議会議長会、県町村議会議長会副会長を兼ねる。

 現在、辺土名高同窓会の副会長。生徒数の減少が気掛かりだ。母校は近年、放送部や環境科が県内外で注目される活動をしてきた。「本当に寂しい。全国から生徒を呼ぶことができないか」

 国頭村長で33期の知花靖(61)も生徒数減を心配する。「われわれの時代、学区制で北部3村から行ける普通校は辺土名だけだった。当時は800人もの生徒がいた」

 入学は75年で部活動が盛んだった。自身は野球部に所属。「3年間、部活ざんまいだった」と語る。

 大会時の移動手段は路線バス。試合が奥武山球場である時は前日、学校を出発した。宿泊費もなく、部員は親類宅で分泊し、翌朝、球場に集まった。「移動だけで疲れてしまう。これでは試合にならない」と苦笑いする。

 饒波は県内でも寒地として知られる。学校前のバス停で震えながらバスを待ったのも懐かしい思い出だ。

 卒業後、国士舘大学に入学。86年に村役場に入り、副村長を経て昨年3月、村長に初当選した。来年は復帰50年。鹿児島県与論町との間で海上集会など記念事業を計画している。

 東村長の當山全伸(72)は22期。「貧しい時代だったが、同期のつながりは強かった。今も同級生との会合が続いている」と語る。

 高校時代は病弱だったいい、部活動に励む同級生たちをはたから見ていた。「スポーツが盛んで、都会には負けないというやんばる魂、ライバル心があった」と振り返る。

 東村有銘で生まれ、64年に辺土名高に入学した。家を離れて下宿暮らし。毎日のように友達と語らった日々を思い出す。北部出身の若い教師が多かったことを覚えている。「先生は親身になって私たちを教えてくれた」と語る。

 卒業後、日本大学農獣医学部に進学。大学の不正経理問題に端を発した「日大闘争」にぶつかった。帰郷後、73年に村役場へ。退職後の2019年、村長に初当選した。

 母校の現状を心配する。「今のままでは存続は厳しい。辺土名高校をどうするか。3村で一緒に考えたい」と語る。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)