沖縄戦や地域の歴史・文化に関する資料を展示・紹介する南風原文化センターの館長、平良次子(58)は辺土名高校の36期。「私の家族は皆、辺土名高校の卒業生です」と話す。
対馬丸体験の語り部である母の平良啓子は8期、父で辺土名高校など県内高校で教えた平良真六は10期である。きょうだいも辺土名高で学んだ。
大宜味村喜如嘉で生まれ、就学前に宜野湾市に転居した。中学進学時に大宜味村に戻り、78年に辺土名高へ入学した。9年間、都会で過ごした平良は大宜味の自然の中で成長した同級生に驚いた。「下校時、友達と海岸に下りてアーサを採った。大宜味で育った同級生は海や山のことに詳しかった」
生徒は体育祭や文化祭などの学校行事に熱心に取り組んだ。平良は高校2年の時、生徒会役員として活動した。ワンダーフォーゲル部に所属し、仲間と火を囲んで夜通し語り合ったこともある。「仲間を大事にする基礎が高校時代にできたのだと思う」
個性的な教師との出会いもあった。「キラキラ見える」ような存在だった。
「生徒会顧問の宮城一夫先生はやんばるの生徒たちの伸び伸びとした感性を生かしてくれた。世界史を教えてくれた山入端一博先生は授業中、黒板に絵を描いてくれた。上手だなと思っていたら画家でもあった」
学校では教師と生徒との関係は近く、時には衝突することもあった。バイク・自動車通学を巡って学校と対立した男子生徒が授業をボイコットする出来事もあった。卒業後、平良は「生徒は正々堂々と先生と交渉していた」という教師の回想を人づてに聞いた。
卒業後、琉球大学を経て南風原文化センターに設立時から関わった。高校時代の同級生たちとの関係は今も続く。「個性的だった同級生たちの良さを卒業後、しみじみ感じている。あの時語り合った人たちが人生を支えている。友達は誇りです」と平良は語る。
仲間たちとの間で母校の現状も論じ合う。「みんないろんな意見を持っている。辺土名高校に工芸科、芸術科があってもいいな」
辺土名高校に環境科が創設されたのは2001年。県内だけでなく他県からも生徒が集まるようになった。61期の藤木淳平(33)はそんな一人。現在、辺土名高の教師として生徒を指導する立場にある。
福岡県小郡市の生まれ。「友達とザリガニを捕ったり虫を捕ったりしました」という少年期を送った。自然を学ぶことができる高校はないかネットで探したところ「辺土名高校の環境科がヒットした」。02年、選抜高校野球で辺土名高野球部が21世紀枠の候補となったことから注目度が高まっていた。「沖縄に行きたいと言ったら、親はびっくりしていましたね」
それまで沖縄との接点はなく、テレビで知る情報のみだった。受験前、父と共に初めて沖縄を訪れ、辺土名高を見学した。豊かな自然に藤木は魅了された。「やんばるの山の緑、空の青、校舎の屋根瓦の赤に圧倒された。あの色は忘れることはできない」
03年4月、入学が決まり、親元を離れ大宜味で暮らすことになった。「県外から来る自分がはじかれるのではないか」という不安はすぐになくなった。
「僕を名字でなく『淳平』と名前で呼んでくれた。人の温かさに触れた気がして、うれしかった」
野球部に所属し、40人の部員とグラウンドで汗を流した。「あまり強くなかったけれど、一生懸命練習した」。寮では各地から集まった生徒と語らった。各地の地域行事に参加したのも楽しい思い出だ。生徒に呼び掛け海岸のごみ拾いをしたこともある。「豊かな自然を汚すのも守るのも人だ」という信念からだ。
充実した高校生活の中で自分の力を沖縄に還元したいという思いを抱くようになった。卒業後、琉球大学で学び、教員として沖縄にとどまる。母校で教えるようになって6年になる。
生徒の減少に悩む教員の一人となった今、藤木は考える。「辺土名高校に入学してくれた生徒としっかり関わっていきたい。それが学校存続、愛される学校づくりにつながると思う」
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)
(辺土名高校編はおわり。25日から那覇商業高校編です)