<書評>『沖縄・宮古島 島尻の秘祭 ウヤガン』 神に近づく命懸けの祭祀


社会
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『沖縄・宮古島 島尻の秘祭 ウヤガン』大城弘明著 榕樹書林・1430円

 漆黒の闇の中で神々が降りてくる瞬間を目撃したことが。微動だにしなかった椰子(やし)の葉がサラサラと静かに揺れた。バリ島で見た降臨シーンはガルンガンという行事で、祖霊神はマンクーという神職に憑依(ひょうい)することによって地上へ舞い降りる。

 しばらくして目が闇に慣れてきた。ボブ・マーリーみたいな髪型のマンクーたちは全身白装束のいでたちで白檀(びゃくだん)の煙を吸い込み続け、絶えずシャワーのように注いでくるガムランの音を身体に入れ込む。いやが応でもマンクーたちを神の世界へと誘う。彼らのトランスこそが神の降臨であり、白檀もガムランも五官を刺激するための装置なのだ。

 一方、宮古島島尻の女性たちは寒風吹きすさぶ海岸近くで想像を絶する神事行為を五度にわたって繰り返す。すぐ近くでは、おそらく理解不可能な祖母たちのすさまじいばかりの仕草を、緊張に満ちた表情で見つめる孫娘たちの姿が。いつかは自分たちも同じことをやる、ってよ。

 祭祀(さいし)に参加している女性たちの衣装を見るだけでも、極限の寒さが伝わってくる。神になろうとする祖母たちと言えば、数日間の断食を続け、緊張した状態で神世界へと近づく。冷たい雨、肌を切るような風、素足、断食、極度の緊張、樹の房を地面にたたきつける音、永遠に終わりがないのではと思えるようなスサ(神謡)が続く。

 バリ島だと、マンクーたちは最後にクリス(小刀)を自らの胸に突き刺す。そのままでは命の危険があるので周辺が総力で制止する。島尻では、ピンギカン(逃げる神)というトランスで終焉(しゅうえん)を迎える。ここでも抑え役が絶対に必要である。そういう極限状態をカメラは記録として残した。大城弘明青年、ときに22歳。身も心もこわごわとした様子がうかがえる。この「こわごわ」こそが、この写真集の命だと思える。レンズのあちら側は命懸けの真剣勝負をしている。おそらくカメラの存在さえ見えないだろう。撮影する側もキーブラダーチャー(総毛立つ状態)だったのでは。本物の緊張感がこちらへも伝わってくる。

 (宮里千里・沖縄民俗祭祀採音者)


 おおしろ・ひろあき 1950年糸満市生まれ。沖縄タイムス写真部勤務後、2015年退職。著書に「地図にない村」「鎮魂の地図」など。