りゅうちゃんと政治や経済の事情通「石がんとーさん」がニュースを分かりやすく紹介する「そこが知りたい! なるほどうちな〜ニュース」。今回のテーマは「学校生活から見る沖縄戦の始まり」です。みなさんは、家族や地域のおじいちゃんやおばあちゃんが子どもだった頃の戦争体験を聞いたことがありますか? 戦争が始まる前、みなさんと同じくらいの年だった子どもは、どんな勉強をしていたでしょうか。生活はどうでしょう。りゅうちゃんと石がんとーさんに解説してもらいます。
沖縄戦を体験した人たちは今、70代以上の人たちか〜。あの頃は子どもだったはずだけど、どのように戦争に巻き込まれていったんだろう?
戦争が始まる前から説明しよう。戦争は急には始まらん。準備を着々と進めて、その間に学校で子どもたちに教える内容も変わっていった。大人だけでなく、子どもも戦争に「参加させる」ための教育が始まったんじゃ。
学校が大きく変わったのは1941年のことじゃのー。マンガの仲村実男さんが10歳の頃じゃ。通っていた学校の名前が「国頭尋常高等小学校」から「国頭国民学校」に変わった。
★国民学校では、どんな勉強をしたの?
みんなの学級はどんな時間割かの?1944年の泊国民学校3年生の時間割の写真で、「訓」という字を探せるかの?
10歳くらいの子どもたちが、戦争の訓練をしていた証しじゃ。当時は、行進の練習や持久走で体力を付けて、将来、兵士として戦うための訓練もした。子どもも戦力、労働力だったんじゃ。「算」は「算数」の時間じゃ。子どもたちは教科書に描かれている戦闘機や戦車を数えて、数を覚えたんじゃよ。
へぇ〜。今、ぼくたちが使っていりゅ教科書とは違うね。
そうじゃな。じゃが、あのころはこうして身近なところに、戦争に関係するものを登場させて、戦争に慣れ、戦うためのやる気を盛り上げていったんじゃ。
「必勝の信念は必死の訓練より生ず」とあるのは、習字の教科書じゃ。戦争に勝つことを子どもに書かせて「★少国民」を育てていった。当時はそういう教育だったんじゃよ。
いよいよ戦争が近くなりゅと、学校ももっと変わっていったのかなぁ?
まさにそうじゃ。1943年ごろからは授業はなくなって、戦争がきた時のために食料を作ったり、防空壕や避難小屋づくり、日本軍の飛行場づくりを子どもたちがしたりするようになったんじゃ。想像できるかのー?
戦場になる沖縄には日本兵が日本本土や派遣先の中国から多くやってきて、校舎は日本兵の宿舎になった。もう授業どころではないのー。
1944年ごろから、沖縄を離れて日本本土や台湾に疎開する子どもも増えてきた。
疎開する子どもを乗せた船「対馬丸」が米軍の潜水艦に攻撃されて沈み、多くの子どもたちが命を落としたんじゃ。
やがて、中山きくさんのように、学生でも戦場に行くために訓練や教育を受け、学徒隊や鉄血勤皇隊となったんじゃ。こうして、子どもも巻き込まれた沖縄戦が始まったのじゃよ。
★少国民 当時の小学生の呼び名。天皇陛下に仕える小さな皇民という意味。