非戦闘員も前線で戦う 法の根拠なく入隊「今考えると恐い」<国策の果て>1(後編)


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 1945年3月、大城富美さん(92)=当時16歳=が配属されたのは、旧玉城村(現在の南城市)に駐屯していた独立混成第44旅団第15連隊(美田部隊)だった。

 琉球政府が戦後、各市町村住民への聞き取りをまとめた「軍属に関する書類綴」によると、美田部隊は45年2月初め、各区長から推薦された女子青年団の「幹部級団員」に看護教育を実施。20日に34人ほどの女子が入隊し、4月20日ごろまで随時役場や区長を通じて入隊命令が出された。大城さんもその一人だった。

 他にも炊事婦として村内の(1)未婚の女性(2)家庭に支障のない者―が入隊を命じられた。駐屯地域に強大な支配力を持つ日本軍は行政を利用し、法的な根拠なく動員を進めていった。

【前編はこちら】村の若い女性軍属、9割が死亡した

「戦世は大変」と話す大城富美さん=2021年5月、南城市奥武

 部隊は45年5月、首里の司令部を守るため真嘉比で米軍との激しい攻防戦を繰り広げた。墓の中が臨時の看護場所となり、大城さんは兵士らに包帯を巻き、薬を付けたが、頭を撃たれた人はなすすべなく死んでいった。

 戦況が悪化すると「非戦闘参加者」として動員された住民も戦闘を命じられた。同じ部隊で炊事をしていた玉城村出身の男性も大城さんに炊事を頼み、戦闘に駆り出され亡くなった。

 真嘉比から散り散りに撤退し、玉城村前川の壕に戻った。壕には村内から炊事婦として動員された2人の女性とその家族がいた。「島の人と合流するか、軍と行動を共にするか」。話し合い、大城さんは島の人と合流し6月中旬、奥武島で米軍に捕まった。軍と行動を共にした炊事婦の女性は亡くなった。

 沖縄戦による住民被害は戦後、旧厚生省や琉球政府によって調査されたが、動員の実態の全容は分かっていない。旧厚生省が71年にまとめた同部隊の留守名簿にも大城さんの氏名が「軍属」として記されている。

 沖縄戦から76年たち、戦争の実態を知る人は少なくなっている。国のために住民の命が軽んじられる時代を二度と繰り返してほしくない、と願う大城さん。軍国主義を美化し、再び戦争に突き進むような事態を繰り返さないためには「軍国主義の恐ろしさを知る人が周りの人に最後まで伝えていくことが大事だ」と話す。「あの時は何でも国の言う通りにしなければいけなかった。今考えると恐ろしくなる。ちゃんと子や孫に『戦争はこんなだったよ』と話したほうがいい。そんな時代があったのだと」 (中村万里子)