軍服を着てみたい…過酷な戦に憧れは絶望へ 15歳で義勇隊・中本信一さん<国策の果て>2(前編)


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「戦争なんてもうやらないほうがいい」と語る中本信一さん=5月、南城市玉城奥武

 憧れは絶望に変わった。旧玉城村(南城市)の奥武島出身、当時15歳の中本信一さん(91)=南城市玉城奥武=は「義勇隊」として戦場に送られ、戦闘に参加した。軍隊を羨望(せんぼう)の目で見ていた中本さんは戦場で弾薬運びなどに従事させられ、戦争の過酷さを心身に刻んだ。

 沖縄戦前年の1944年4月、中本さんは青年学校に入学した。「エイ、エイ」。授業は軍事訓練が中心で、敵兵に見立てたワラ人形を標的とする竹やり訓練や銃の扱い方を学んだ。夏には授業を中断し、日本軍の飛行場や野戦病院壕の構築に駆り出された。兵隊を見掛けると「軍服を着てみたい」と目を輝かせた。

 45年3月中旬、奥武島も米軍の激しい空爆にさらされた。壕に避難していた中本さんら若者十五、六人が村に駐屯する独立混成第15連隊(美田部隊)に「義勇隊」として配属された。義勇隊は、町村ごとに防衛召集された人以外の男女によって編成され、弾薬運搬や患者輸送、陣地作業、食料収集を担わされた。

 兵役法の対象は17歳以上(志願は14歳以上)だったが、沖縄戦では法的根拠のない17歳未満の若者の動員も進められた。軍と県、警察が主導して市町村長や学校への義勇隊の結成を指示していた。

 日米両軍の激しい攻防戦となった真嘉比(現那覇市)で、中本さんは弾薬運びを担った。砲弾が直撃し、同級生が即死した。「日本は勝つ」と言われ続けた戦争の実態はかけ離れていた。やがて小隊長は「この戦に勝ち目はない」と親元に帰るよう促した。

 中本さんはサバニで奥武島へ戻り、村の壕で軍服を脱いだ。「戦争って、こんなものか。もう戦争は嫌だ」。絶望だけが残った。(中村万里子)