「首里に行け、は死ぬこと」逃げた人が生きた 山部隊に配属・金城栄喜さん<国策の果て>4


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与座岳が見える場所で当時、この地域に駐屯した日本軍に動員された経験を語る金城栄喜さん=5月、糸満市

 沖縄に上陸した米軍と日本軍が首里周辺で激しい戦闘を展開していた1945年5月、戦力補充のため、本島南部の住民らが根こそぎ動員された。旧高嶺村与座(現・糸満市)で生まれ育った金城栄喜さん(93)=糸満市与座=も、この時期に動員された。与座に近接する、現在の八重瀬町高良の壕に駐屯していた第24師団(山部隊)の「病馬廠」部隊に配属された。

 山部隊の司令部や各部隊は44年12月から沖縄戦に備え、与座周辺に兵舎や陣地壕を構築していった。金城さんは一人息子。親は兵士への志願を反対していたが、その願いは打ち破られる。部隊は地元の役場や区長を通じ、住民を戦闘員や炊事婦、看護婦などとして次々に動員した。

 金城さんも同世代の2、3人と壕に集められ、部隊に組み込まれた。「集落に残っている若者たちはみんな集まれ、と言われて各部隊に連れて行かれた。兵隊がどんどん前線に行って亡くなるから、その補充で沖縄の若いのがみんな入れられた」

 金城さんが配属された部隊の任務は、首里の司令部に食料を届けることだった。現在の南部徳洲会病院(八重瀬町外間)がある辺りから首里を目指したが、米軍の迫撃砲はそのルートに集中した。金城さんは運搬命令を受けなかったが、運搬に行った人は生きて帰らなかった。「米軍は食糧を運んでいるのが分かるから狙う。首里に行きなさい、というのはもう『死にに行きなさい』という意味だった」

 45年4月から5月半ばまで、日本軍が本島南部の住民を大規模に防衛召集していた事実が、琉球政府が戦後まとめた「昭和20年4月以降における防衛召集事実資料」に記されている。旧高嶺村、旧兼城村、旧糸満町では「地勢に詳しい遊撃戦」の要員として、区長らが口頭で16歳~52歳の約220人を召集。兵役法対象の17~45歳よりも年齢が拡大された。中部から南部へ避難した人も含め、手当たり次第、法律の手続きを無視した強引な動員だった。金城さんもこうした動員に巻き込まれたとみられる。

 金城さんはもともと身体が弱く、ご飯も食べられず入隊後まもなく発熱した。上官に訴えたが、帰宅の許可はすぐに得られなかった。八重瀬岳の野戦病院で軍医の診察後、帰宅を許された。やがて戦火は与座にも迫った。日本軍は与座岳付近に立てこもり、米軍の攻撃も激しくなった。

 たまらず両親や祖父らと喜屋武へ逃げた。米軍は住宅や身を隠すアダンの葉さえも火炎放射で徹底的に焼き払った。金城さん一家は焼け死ぬ寸前で海に逃げ、米軍に捕まった。幸いにも全員が生き延びた。

 金城さんの名前は「軍属」として部隊の留守名簿に記されている。金城さんがいた部隊は6月、与座周辺の激しい戦闘で全滅した。「兵隊、軍と一緒に行動した人がみんな亡くなった。逃げた人が生きた。それが答えなんだよ。『軍のため』と言って戦った人は死んだ。(自分は)軍隊から逃れたから生きている」。金城さんは住民が動員され亡くなったことや、与座が戦禍に巻き込まれた経験から、基地は住民の命を脅かす存在だと断言する。

 沖縄戦のさなかに沖縄の米軍基地の建設が始まり、戦後、基地はベトナム戦争などの出撃基地となった。今も世界の戦争や紛争に関わりがある。「基地を造ったら『安全』と簡単に考えているのかもしれないが、基地があるところに攻撃は来る。昔の経験から、基地はないほうがいいというのは事実だ」

(中村万里子)