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戦場で別れた母…面影を探す女性の、ある「対面」<沖縄発>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

written by 米須 清光

泣き出す赤ん坊を抱き上げてあやす米兵(1フィートフイルムから)

 6月に入ると、沖縄は各地で戦没者を慰める慰霊祭が執り行われる。特に日本軍の組織的抵抗が終わったとされる6月23日、「慰霊の日」には、沖縄全戦没者追悼式をはじめ、沖縄戦で亡くなった人たちの御霊を慰める香の煙が絶えない。そして6月に入ると、ある女性を思い出す。

 沖縄戦中、へその緒がついたまま壕の中に置き去りにされ、泣いていた赤ちゃんを米兵が収容所に連れて来た。その日が女性の誕生日となった。

 数十年前、取材で女性に出会った。女性は、ある夫婦に引き取られたが、貧困、孤独、養父から虐待された。そして高校受験の時、自分の戸籍がないことに気づき、自分は戦争孤児だと知った。自棄に陥り、劣等感に苛まれた。泣きながら母親の顔を思い浮かべようとしたが、どんな顔なのか分からなかった。受験は諦め、職を転々とした。やがて結婚、2男1女を授かった。自分と血がつながる存在はいとおしかった。「幸せ」、「学問」、「勉強」。自分が得られなかったもの、できなかったこと。子どもたちの名前には、そこから一文字を取り、思いを託した。

 以上のような内容を、人物に焦点を当てた連載で紙面に載せた。

 「その女性、もしかして私の妹ではないか」。掲載後、沖縄本島中部地域に住む年配の女性から連絡があった。「亡くなった母が戦争中、壕の中に三女をおいてきた、と繰り返し語り悔やんでいた。ぜひ会わせてほしい」。

 後日、そこに向かうため女性を迎えに行った。女性には交通手段がなかった。学校も満足に行けず、運転免許は取れなかった。取材で訪れた時と同様、古い団地は狭く、物であふれ、生活の厳しさが伝わってきた。

 年配女性から聞いた住所をもとに着いた家は、広い敷地に大きな家、招き入れられた居間も立派だった。長女である年配女性のほか、二女、それに親戚数人。年配女性は、母親の話を始めた。置き去りにした三女にわびていたことや、方々探し回ったが手掛かりさえつかめなかったことなど。女性は黙ったまま聞いていた。その場の空気はとても重かった。

 そこへ遅れて四女がやって来た。見て驚いた。目じり、ちょっと張った顎、鼻の形、女性とよく似ていた。思い込みといえば、それまで。戦争孤児はほかにも多い。証明するものは何もない。戦後生まれの四女は、場の空気には無頓着で、この人はもしかして私のお姉さん、というような雰囲気で無邪気に明るかった。

 女性が私に言った。「(血のつながりを)証明する方法って、あるんですかね」。「DNA鑑定というのがありますが、費用もかかるはずです」。皆、しばし黙り、話題は別へ移った。

平和の火=糸満市摩文仁の平和祈念公園

 帰りの車の中で、女性に尋ねた。「DNA鑑定、やってみたいですか」。ちょっと間を置いて女性は答えた。「いいですよ。いまは幸せだから」。

 本音とは思えなかったが、それ以上、女性の心のうちを知る由もなかった。

 数年前、沖縄戦に関連する記事で女性の近況を知った。わずかばかりの年金、生活はままならず、70代になっても清掃の仕事を週5日続けていた。出自に踏み込まれるのが怖く、他人との付き合いを避け、友人は少ないのも以前と同じだった。そして、母親の面影をまだ探していた。


米須 清光(こめす・きよみつ) 1962年生まれ、宜野湾市出身。地方連絡部長、社会部長、ニュース編成センター長などを経て中部支社長。最近は、同じ宜野湾市出身のプロ野球オリックス・バッファローズの宮城大弥投手の活躍が何よりの楽しみ。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。