第32軍壕跡、公開し「過ち」学ぶ場に 証言に照らし実証研究を 牛島貞満氏<爪痕は語る 戦争遺跡継承の課題>3


社会
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第32軍司令部壕跡で、試掘調査時に掘った迂回坑道と第1坑道枝杭の接合部。第1坑道まであと6メートルの地点で、正面上部に鉄筋が出土している=1995年3月

 沖縄戦から76年。戦争体験者が高齢化する中、戦禍の教訓を伝える手段として戦争遺跡の重要性が増しているが、調査や保存できないまま開発などで既に消失した戦跡もある。第32軍司令部壕や海底に眠る爪痕、米軍基地内に存在する戦争遺跡などは調査に大きな課題がある。貴重な戦争遺跡を調査し保存・活用していくために必要な視点について識者に寄稿してもらった。

 東京から、第32軍首里司令部壕の調査、保存、公開、活用を応援する立場で、発言をさせていただく。
 国内の司令部壕を規模(坑道の長さ)を順に並べてみた。その規模・坑道の長さから言えば、首里司令部壕は4番目であるが、国内の最大で最後の地上戦を指揮し実戦で使用されたことから戦争遺跡としての価値は群を抜く。約20万人以上の沖縄県民、日本兵、朝鮮半島・台湾出身者、米軍兵の命を奪った沖縄戦の特に南部撤退という無謀な作戦命令の起案、作戦会議、決定を行った場として日本の歴史上きわめて重要な戦争遺跡であることは間違いない。

 本気度と決意

 ドイツのメルケル首相が、2019年12月、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所で、ナチスによる犯罪を「記憶しておくことは…決して終わることのない責任の一つだ。この責任を認識することは、国家のアイデンティティーの一部だ」と表明し、過去の歴史的な過ちに向き合い続ける本気度と決意が、ヨーロッパのみならず世界中に好感をもって伝えられた。

 一方、日本では、毎年8月に歴代の首相や天皇が同時期のアジア太平洋戦争について「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない」「深い反省」との言葉を繰り返し述べてきた。6月の慰霊の日の首相あいさつも同様に、被害にあったアジアの国の人々や沖縄県民にその本気度が見えないのはなぜか。それは、その反省の中身を伝え、過去の戦争とその過ちを具体的に学ぶ戦争遺跡・学習施設が、日本にないからではないか。

 戦後、1962年那覇市が、68年に沖縄観光開発事業団(沖縄観光コンベンションビューローの前身)が観光化を目的に調査をしたが、落盤が激しく断念している。本気度を示したのは、大田昌秀知事時代の沖縄県であった。93、94年度に司令部壕の保存・公開に向けて本格的な試掘調査に着手し、97年には公開基本計画を発表した。開示請求で業務委託された日本工営の報告書を見て驚いた。なんと司令部中央の第1坑道にあと6メートルまで、調査が進んでいた。報告書には「司令部中央枝坑との接合部。正面上部に鉄筋が出土」と記述され、写真が添えられていた。

 司令部壕を戦跡として、保存公開、活用するためには、まず司令部壕の機能や仕組み、その中にいた兵士、将官、女性を含む民間人などの生活がわからなければ、「土と岩の地下トンネル」になってしまう。この試掘調査では、遺品回収以外は、実証的な戦跡考古学的な調査はほとんど手がついておらず、結果として76年間も放置されてきたのである。司令部壕について多くの証言者が語られてきたこと等と突き合わせた実証的な研究が必要になる。

 全容解明のため

 今年の1月に沖縄県が設置した公開・保存の検討委員会は、歴史・文化財、トンネル工学の専門家が集まり、討議が重ねられていると聞く。まず調査の方法やスケジュールを広く公開すれば、より多くの関心が広がるだろう。

 (1)城西小学校近くの第1坑口からは、司令部中枢部があった第1坑道に向けて掘る。62年に那覇市が歓会門付近までを掘ったが、落盤のため埋め戻したので文化財としての調査は不可能だ。第1・2坑道の交差点からは、米軍も調査できず、日本軍の爆破以降一度も手が付けられていない未調査区域もある。調査後は、体験的な見学コースにすればよいだろう。

 (2)95年3月の試掘調査で第1坑道まであと6メートルに迫っていた。その先は、第1坑道南側で軍医部、患者収容室などがあり、遺骨が残されている可能性が一番高いと思われる調査区域である。

 (3)第5坑道はほとんど調査済みであるが、坑口から25メートル地点に入った右側(東)に20メートルほどの炊事場坑道があった。煮炊きをしても煙が外には出ない煙突があった。米軍情報報告書『Intelligence Monograph』の写真には「文書が回収された場所の炊事場の一部」と説明が付けられ、物が散乱し床が見えない。司令部壕内の約1千人の食事を誰がどのように賄っていたのか。南部撤退時に日本軍の多量の機密書類を燃やし、埋めたとされる場所でもあり、米軍が取り残した書類が埋められている可能性もある。

 司令部壕の全容解明のためには、首里の地下に埋もれている坑道跡と米国の公文書館の棚にある米軍報告書に掲載されていない写真史料の調査が不可欠である。

 教訓を未来へ

 私の祖父である第32軍牛島満司令官は首里の司令部壕で降伏せず、本島南部に撤退する作戦を選んだ。その結果、日本軍、米軍、住民の三者が混在する戦場がつくられ、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生した。多くの沖縄県民や第32軍兵士の犠牲と悲劇をもたらした最大の原因は、牛島司令官が決裁した「南部撤退」と「最後まで敢闘し」の二つの命令にある。特に「南部撤退」の作戦命令を下した場所が首里の司令部壕。地下に埋もれたまま、現在のように「保存」だけされていたのでは意味はない。公開・活用されて初めて戦争遺跡としての価値を持つ。

 反省の中身を後世に伝えていかなければ、反省の意味はない。76年前、沖縄の住民が身をもって紡ぎ出した教訓「軍隊は住民を守らない」は、日本の私たちだけでなく、東アジアの未来の平和を築くための、とても大切なメッセージである。

 沖縄に訪れる関東地方の高校で修学旅行の指導で沖縄戦の話をする機会がある。米軍が作成した本土上陸(コロネット)作戦の地図を提示し「1945年8月15日、もし天皇がポツダム宣言受諾のラジオ放送をしなかったら、沖縄戦で4人に1人が亡くなったのと同じ戦争がこの地域でも起き、ここにいる何割かの人はこの世に存在しなかったかもしれない」と話すとしっかりとうなずく生徒たちが多い。過去の遠い旅行先の沖縄戦が急に身近な出来事として生徒がとらえた瞬間である。

 近い将来、再建された首里城を見学し終わった生徒たちが、沖縄戦当時と同じように作られた第1坑口から地下の学習施設に入り、沖縄戦について学ぶ場の実現に向けて協力したいと思っている。

牛島 貞満

 


 うしじま・さだみつ 2017年3月まで東京都公立小学校教員。第32軍司令官・牛島満の孫で41歳から祖父の足跡を調べ始める。沖縄戦の体験者や研究者から取材し、「牛島満と沖縄戦」と米軍基地問題をテーマにした授業を行ってきた。現在、第32軍首里司令部壕の調査を進めている。