宜野湾市の祝嶺初美さん(79)は、25年前に97歳で亡くなった父、具志堅古知さんに代わり、糸満市摩文仁の平和の礎を訪ねた。戦時中、父は横浜で仕事をしていたため生き延びたが、沖縄に残っていた両親ときょうだい計10人全員を沖縄戦で亡くした。「どこでどのように亡くなったのかも分からない。私にとっては、慰霊の日にここに来るのがお墓参りだ」と話した。
戦後、父は家族に沖縄戦の経験を一切語らなかった。八重瀬岳のすぐ近くに実家があり、さみしそうに八重瀬岳を眺めるときもあったという。祝嶺さんは「自分だけ生き残ったことが心苦しかったのかもしれない」と、父の心の内を推し量る。
父は80歳を超えてから、平和の礎に自分の家族の名前を刻銘するために、さまざまな手続きを進めた。「今、その頃の父と同じ年齢になり、どれほど大変な作業だったか分かるようになった」と話し、父の家族への思いを深く感じた。
生前、父と一緒に平和の礎を訪れることができなかったのが心残りだ。毎年、父の気持ちを考えながら、礎の名を眺める。
戦時中、横浜で生まれた祝嶺さんも沖縄戦は全く知らない。摩文仁の丘から海岸線を眺め、沖縄戦で多くの命が失われたことに思いをはせるのも、毎年の決め事だ。雨天の下、波の音に耳を傾け「今年は波の音はさみしく聞こえる」とつぶやいた。
(稲福政俊)