全市町村で文化財指定を 沖縄戦の教訓学ぶ遺産に 吉浜忍氏<爪痕は語る 戦争遺跡継承の課題>4


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
南風原町の文化財として指定されている沖縄陸軍病院南風原壕群の内部=2019年

 沖縄戦から76年。戦争体験者が高齢化する中、戦禍の教訓を伝える手段として戦争遺跡の重要性が増しているが、調査や保存できないまま開発などで既に消失した戦跡もある。第32軍司令部壕や海底に眠る爪痕、米軍基地内に存在する戦争遺跡などは調査に大きな課題がある。貴重な戦争遺跡を調査し保存・活用していくために必要な視点について識者に寄稿してもらった。

■戦争遺跡の歩み

 復帰前の平和教育では、沖縄戦が扱われることはほとんどなかったし、ましてや戦争遺跡(以下、戦跡に略)は眼中になかった。沖縄戦や戦跡が注目されるようになったのは、復帰後の1970年代後半からであった。

 その背景の一つは、住民証言で編集された71年発刊『沖縄県史 沖縄戦記録1』に住民が避難していたガマなどの戦跡が記録され、そこでの避難の様子、日本兵による壕追い出しや虐殺などの出来事が具体的に明らかにされた。

 もう一つは、本土修学旅行のオキナワ平和学習の目玉として糸数アブチラガマやガラビ壕などへの「戦跡めぐり」が始まり、これに伴って戦跡ガイドの誕生や戦跡ガイドブックの発刊が相次ぐようになった。戦跡に触れ、特にガマに入ることは沖縄戦の追体験の方法として有効であることが認識されるようになった。いわゆる「ガマの教育力」である。県内でも学校や団体が「戦跡めぐり」を実施するようになり、徐々に戦跡が知られるようになった。

■開発に伴う破壊

 「戦跡めぐり」が広がる中、その対象である戦跡が開発行為によって破壊されることも少なくなかった。この時期、戦跡を開発行為から守るすべはなかった。沖縄戦研究者の中から戦跡がなくなるということは「戦跡めぐり」ができなくなるという危機感が生まれた。

 こうしたことに警鐘を鳴らしたのが沖縄戦を考える会であった。沖縄戦を考える会は77年に、戦跡の資料的価値を認識し、調査を行い、保存と活用を検討してほしいと県に要請した。

 さらに同会は85年、戦跡の保存のためには文化財保護条例を改正して文化財指定することを県に要請。このことは90年に、南風原町が町文化財指定基準の史跡項目に「沖縄戦に関する遺跡」を追加挿入することで沖縄陸軍病院南風原壕群を町文化財指定にしたことにつながった。この時期、戦跡保存の在り方として文化財指定が示され、同時に活用の視点も生まれた。

■1995年が転機に

 沖縄戦終結50周年の95年は戦跡のターニングポイントの年であった。県は、50周年事業として第32軍司令部壕の保存公開に取り組んだ。

 文化庁は、「史跡名勝天然記念物指定基準」を改正して、対象時期を第二次世界大戦終結頃までとし、史跡項目に「戦跡」を入れ、戦跡を文化財指定することに道を開いた。さらに、実際に戦跡をガイドしている沖縄平和ネットワークが戦跡の保存と平和教育への活用を県に要請した。

 南風原町は、戦跡の保存活用を考える「壕シンポジウム」を開催し、戦跡の価値を県内外にアピールした。95年の戦跡をめぐる動きは、戦跡が沖縄戦継承にとってなくてはならないモノとして認知されるようになった。

 これまで、市民団体による地域の戦跡調査が行われてきたが、98年から沖縄県埋蔵文化財センターが「戦争遺跡詳細分布調査」を開始した。分布調査ではあるが行政による学術的な戦跡の調査は初めてであった。その後、沖縄県埋蔵文化財センターは2010年に「戦争遺跡詳細分布調査」をスタートさせた。この事業の目的の一つは、戦跡の文化財指定や活用に資するために学術的、体系的な調査をすることであった。

 こうした調査に刺激され、2000年以降に発刊された市町村史(戦争編)には、地域の戦跡が記録されるようになった。県内各地で足元の戦跡が調査され、地域の沖縄戦を継承する取り組みが行われるようになったのだ。

 沖縄は戦跡の島であり、41市町村すべてに戦跡は存在している。戦跡には地域の沖縄戦の「記憶」が刻まれている。しかし、戦跡の破壊や経年劣化も進んでいて、戦跡の「記憶」が消えつつある。戦跡は自ら語らない。戦跡を語らせるには証言と資料が不可欠であるが、戦跡に関する資料は少ないし、体験者の減少によって証言をとるのも難しくなっている。残された時間はあまりないが、戦跡の「記憶」を記録することは先送りできない。今、やらないと永久にできなくなる。

■問われる本気度

 戦跡を守るには、まず地域の人々が地域にある戦跡を自治体と一緒に調査記録し、フィールドワークをすることから始めることが大事である。

 こうした取り組みの中で地域の戦跡が、地域の沖縄戦継承にとって大事であることが認識され、文化財指定を含めた保存と活用の動きが生まれる。もちろん指定するために地権者の同意が必要である。

 戦跡によっては範囲が広く、複数の地権者がいて困難性を伴う。ここで自治体の本気度が問われる。

 こうした困難を克服して現在、12市町村24件(県教育委員会文化財課調査、2020年5月現在)が文化財指定されている。県指定は1件もない。ここ数年のうちに県内すべての市町村が指定することを加速させてほしい。

 そのためにも第32軍司令部壕をまず当該自治体の那覇市が文化財指定し、さらに県指定にもっていくべきである。そしてゆくゆくは「負の遺産」として世界文化遺産登録を目指すことを提案したい。

 現在、「負の遺産」としての世界文化遺産には、アウシュヴィッツ強制収容所(79年登録)と広島原爆ドーム(96年登録)がある。沖縄戦は、住民を巻き込み、20万人余の犠牲を出した地上戦闘で、世界史の戦争をみても例がない。

 沖縄では、戦跡を通して沖縄戦の教訓を学び、継承し、平和を発信している。例えば、第32軍司令部壕を中核として、いずれも活用されている沖縄陸軍病院南風原壕、糸数アブチラガマ、轟の壕、海軍壕、チビチリガマを関連遺産群にしたらどうだろうか。機は熟していると思う。


 

吉浜忍氏

よしはま・しのぶ

 1949年宮古島市伊良部生まれ。72年大阪教育大学卒業後、高校教諭を経て沖縄国際大学教授。現在、大学を退官し、沖縄県史や恩納村史、八重瀬町史、中城村史などの編集委員。主な著書は『沖縄の戦争遺跡』(吉川弘文館、2017年)、編著は『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館、2019年)。

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