ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン…沖縄戦、学童疎開の過酷さ伝える


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中城村の学童疎開について説明する中村春菜さん(左)と経験者の安里清一さん=5月31日、村立中城小学校

 【中城】太平洋戦争中の中城村の学童疎開をテーマにした平和学習の授業が5月31日、村立中城小学校で同小6年生約40人向けにあった。以前、村教育委員会で疎開について調べた経験のある琉球大学准教授の中村春菜さんが解説した。疎開を経験した安里清一さん(86)=村伊舎堂=が、寒さや空腹などで苦しんだ体験を語った。

 中城小(当時・中城国民学校)の子どもたちが疎開した、熊本県熊本市(当時・田底村)の市立田底小6年の児童らもオンラインで授業に参加した。

 疎開は1944年7月、米軍の攻撃でサイパンの日本軍が壊滅したことを受け、日本政府は沖縄を含む南西諸島から、戦場で足手まといになる高齢者や子ども、女性を九州や台湾へ疎開させることを決定した。中城からは、中城と津覇の両国民学校の子どもたちが熊本に集団で疎開した。

 中村さんは、疎開に至る経緯や現地の生活などを紹介した。今振り返ると、当時は疎開者を乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されるなど「危険と隣り合わせの旅だった」と強調した。子どもたちは、疎開は短期間で終わると聞き、冬服などの準備もないまま約2年の長期疎開にわたったことも説明した。

 安里さんは熊本で過酷な生活を強いられ、体験を「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)」と振り返った。終戦後に沖縄へ戻ると、故郷は緑がなく、家族も亡くなっていた。傷心することもあったが勉学に励んだという。平和の大切さも強調し、子どもたちは熱心に耳を傾けていた。