つらい捕虜生活 克明に 屋嘉収容所・元捕虜隊長山田さん メモと手記 遺族、金武町教委に寄贈


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山田有昂さん

 【金武】1945年の沖縄戦で伊江島における激戦を体験し、金武村(当時)の屋嘉捕虜収容所で終戦を迎えた山田有昂(ゆうこう)さん=2005年没、享年95歳、那覇市出身=が収容所内で記した手書きのメモ帳などについて、長男の有彦(ゆうげん)さん(73)=那覇市=が21日、金武町教育委員会に寄贈した。メモには捕虜の入出所数や収容所で誕生した歌「PW無情」の歌詞などがつづられている。有彦さんは「生き残った兵隊の経験を伝える資料として、活用してほしい」と話した。

 寄贈されたのは有昂さんのメモ帳と、伊江島や収容所での経験をつづった手記「私の戦記」など。有昂さんは生前、沖縄戦を伝える施設への寄贈を望んでいたことから、かつて屋嘉収容所が所在した金武町への寄贈を決めた。

山田有昂さんが屋嘉収容所で記したメモを比嘉貴一教育長(左)に寄贈する山田さんの長男・有彦さん=21日、金武町教育委員会

 手記や有彦さんによると、有昂さんは伊江島の守備隊に配属され、45年4月21日、守備隊が全滅した激戦を体験した。隊全滅後も銃撃や手りゅう弾、ガス弾などの米軍の攻撃から逃げ惑い、一人また一人と仲間を失った。島からの脱出を何度も試みるも失敗し、5月21日に米軍の捕虜となった。

 嘉手納の収容所を経て6月中旬、屋嘉に移され、11月17日の解放までを過ごした。捕虜は沖縄人、日本人、朝鮮人と3組に分けられ、有昂さんは沖縄人捕虜隊長を任された。

 メモ帳は米軍が配ったKレーション(携帯食料)の紙箱を表紙に使った手製で、2冊ある。捕虜の出入所数や作業分担の組織図を記録した。戦争のむなしさや捕虜生活の悲しさに触れ、戦後沖縄で愛された歌「PW無情」の歌詞もつづられている。捕虜仲間だった金城守堅さんの詞を基に、有昂さんらが補作したという。

山田有昂さんが屋嘉捕虜収容所内で記したメモ(左)作業の分担などを決めた組織図(右)上のページが「うらみしゃや沖縄 戦場にさらち」で始まる「PW無情」の歌詞

 有昂さんは手記の中で、敗戦のショックに触れ「自暴自棄にならないよう(略)、沖縄人として毅然(きぜん)たる態度を忘れないよう」呼び掛けたと回顧する。捕虜生活にカンカラ三線や歌を取り入れ、心や秩序の安定を図っていたようだ。

 21日、比嘉貴一教育長から95年に開催した捕虜体験者の集いなどについて説明を受けた有彦さんは「町が屋嘉収容所の歴史継承に取り組んできたことが分かった。父も寄贈を喜んでいるだろう」と語った。比嘉教育長は「捕虜に関する記録は全て米軍に提出され、残っていない。貴重なメモだ。町立図書館などでの展示を検討したい」と述べた。 
  (岩切美穂)