※【漫画付き】沖縄が戦場になったのはなぜ? 本土決戦に備える時間稼ぎ から続く。
6月23日以降も攻撃続く
米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島へ上陸しました。米軍は上陸後、約3時間で日本軍が造った北飛行場(旧読谷補助飛行場)と中飛行場(現嘉手納基地)を占領し、北部と日本軍の司令部がある首里を目指します。宜野湾村(現宜野湾市)で日米両軍の激しい戦闘があり、日本軍は多くの兵士を失いました。
首里城の地下にあった、日本軍司令部の西側にある安里の慶良間チージ(52高地、シュガーローフ)では5月12日から1週間、日米両軍による激しい攻防戦が展開されました。頂上付近の戦闘は日米両軍の支配が1日に4回も入れ替わるほどし烈を極め、5千人以上が死んだと言われています。
劣勢に立たされた日本軍は南部への撤退を決めます。それまでの戦いで戦力の大半を失っていましたが、本土決戦の準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引きつける「持久戦」を続けるために、軍司令部を摩文仁村(現糸満市摩文仁)に移しました。日本軍第32軍の司令官・牛島満が6月23日(22日の説あり)自決すると、米軍は7月2日に「琉球方面作戦」の決着を宣言しましたが、牛島司令官が「最後の一兵まで戦え」と言い残していたため、日本兵たちは降参せず、米軍も攻撃を続けました。
沖縄戦が公式に終わったのは9月7日。越来村森根(現沖縄市、嘉手納基地内)で米軍などの連合国と日本が「降伏文書」の調印をして、多くの人の命を奪った戦争は終わりました。
逃げ場失い 捕虜にもなれず
沖縄戦では20万人余りの人が亡くなりました。そのうち、一般住民の犠牲は約9万4千人です。県出身の軍人・軍属を合わせると、沖縄の人の犠牲は12万2千人を超えます。
日本軍は戦争準備のため、1944年春に沖縄に第32軍を組織し、飛行場建設や陣地構築を進めます。この年7月、日本が統治していたサイパンが米軍に占領されると、政府は沖縄の子どもたちやお年寄りを疎開(戦争から逃れるため、よその場所へ避難すること)させる方針を決めます。その政策によって、九州に疎開する子どもたちが乗った「対馬丸」がアメリカの潜水艦に沈められる悲劇も起きました。
その後、主に17〜45歳以上の男性を「防衛隊」、14〜19歳までの生徒を「学徒隊」として戦闘に参加させ、老人や女性、子どもらには飛行場や陣地造り、食料の調達を担わせました。
45年3月末から米軍が沖縄の島々に上陸すると、住民は逃げ場を失います。米軍の恐ろしさを教えられ、捕虜となることを禁じられた住民が自ら命を絶つこともありました。これを「集団自決」(強制集団死)といい、日本軍の強制や関与によって住民が死に追い込まれていったことが体験者の証言や沖縄戦の研究で分かっています。米軍のスパイとして疑われ、日本兵に殺された住民もいました。
宮古・八重山諸島などでも空襲や艦砲射撃で大きな被害があり、八重山では日本軍の指示、命令で避難した住民が避難先でマラリアにかかり、大勢の人が亡くなりました。朝鮮から連れてこられた人々や台湾の人々も戦場に投げ出され、亡くなりました。
(2017年5月28日掲載)