「ひめゆりの唄」詠み手は? 平敷屋エイサー曲 元の琉歌確認


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「ひめゆりの唄」の歌詞や関連資料を手に、同曲の情報提供を呼び掛ける(左から)平敷屋エイサー保存会の新屋正幸会長と東武さん=6月30日、うるま市平敷屋の平敷屋公民館

 うるま市の平敷屋エイサー保存会(新里正幸会長)が、1960年前後に平敷屋東青年会のエイサーで使われていた「ひめゆりの唄」の詠み手を探している。同作はこれまで、平敷屋エイサーのために多数の作詞・作曲をした元勝連町長の吉野勇吉さんの作品と思われていたが、ひめゆりの塔にささげられていた琉歌を元にしたものだった。

 「ひめゆりの唄」の歌詞は、元平敷屋区長の徳山実さんが1950年後半にまとめたとされる記録に「姫百合の歌」として3句、民謡歌手の徳原清文さんのレコードに「ひめゆり」として4句まで紹介されている。どちらも、西野さんが記憶していた歌詞と、言葉の使い方にわずかな違いがあり、歌い継がれる中で変わっていった可能性も考えられる。

 旧与那城町饒辺出身の徳原さんは、隣集落の平敷屋で歌われていた同曲になじみがあり、歌詞にひかれてデビューレコード「比翼連理」(81年、マルフクレコード)のB面に収録した。当時5番まで平敷屋の先輩に教わったが、レコードに収録できる長さの4番までを収録した。

 平敷屋エイサー保存会の東武さんが同歌についてひめゆり平和祈念資料館に問い合わせたところ、仲宗根政善さんの著作「実録 ああひめゆりの学徒」に最初の2句とほぼ同じ句があると分かった。本では「ある親は、こんな琉歌を木ぎれに書いて立てた」として紹介しており、同作が沖縄戦で実際に子を亡くした親によるものだと推測させる。

 保存会の事務局を20年以上務め、平敷屋エイサーの歴史や文化を調査してきた東武さん(74)が、当時の踊り手・西野ハルさん(86)が記憶していた歌から、全6句の歌詞を確認した。歌詞と東さんが聞き取りをした同保存会三代目会長の大里吉彦さんの証言などから、歌詞の出どころが分かった。

 大里さんは「詞は50年代半ばに平敷屋の石大工・新里武吉さんが、糸満市の摩文仁で慰霊塔建設に携わった際、ひめゆりの塔にささげられていた琉歌を書き写したもの」と話していたという。琉歌からは、戦争で失った子をいつまでも忘れられず、悲しみにくれる親の姿が感じ取れる。

 大里さんは、新里さんから琉歌を元に、平敷屋エイサーのために曲を作るよう頼まれた。そして、平敷屋の三線の名手・幸地清さんより助力も得て、沖縄民謡の「別れの盃」をエイサー向けに編曲して完成させた。エイサーは踊りながら「ひめゆり」の人文字を描く、高い技術を感じさせる作品に仕上がり、60年代半ばまで踊られた。

 東さんは「小学生の頃、平敷屋小学校でエイサーが踊られる日に、大勢の人がトラックに乗って見に来たことがあった。母に聞くとひめゆりの唄のエイサーを見るため、糸満から来た人たちだという。母は、『糸満の人たちは、歌で泣いてしまって、踊りの方が見られていないようだった』と話していた」と振り返る。

 新里会長は「歌詞から子を思う親の気持ちを強く感じる。エイサーの踊りと共にしっかり形を残して後世に伝えたい」と話した。

(藤村謙吾)