宮城初枝さんの沖縄戦体験 みんな「勝つ」と信じていた


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73年前の沖縄戦の様子を語る語る宮城初枝さん=5月、南城市佐敷の自宅

宮城みやぎ初枝はつえさん(95)は1923ねん大正たいしょう12ねん)に佐敷さしきそんげん南城市なんじょうし津波古つはこまれました。

佐敷さしき尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、12さい真和志まわしそんげん那覇なは安里あさと県立けんりつだいいち高等こうとう女学校じょがっこう進学しんがくしました。「図書館としょかんやプールもある立派りっぱ学校がっこうだった。バスケットでは選手せんしゅになれなかったけどたのしかったさ」とひとみかがやかせてかたります。

そのころ日本にほん中国ちゅうごく戦争せんそうつづけていました。体育たいいく授業じゅぎょうではじゅうち、てきたらころせとおしえられました。「いつてきまえにしてもころすことができるぞという気持きもちだった」といます。

沖縄おきなわからも青年せいねんたちが戦地せんちおくられましたが、戦争せんそう実感じっかんはなく、「平和へいわ」だとかんじていました。

女学生時代の宮城初枝さん(中央奥)=1942年ごろ(南城市文化課提供)

 

となわせ

学校がっこう卒業そつぎょうし19さいとき大里おおざとだい国民こくみん学校がっこう先生せんせいになりました。

沖縄おきなわせん間近まぢかになると、6年生ねんせいれて学校がっこうちかくのもりごうりました。「毎日まいにちあさから夕方ゆうがたまでごうり。授業じゅぎょうまったくできなくなった」といます。学校がっこうには兵隊へいたいまり、先生せんせいたちはごはんづくりなどを手伝てつだいました。

初枝はつえさんははは九州きゅうしゅう疎開そかいする準備じゅんびすすめていましたが、校長こうちょう先生せんせいに「沖縄おきなわだれまもるのか」とおこられ、あきらめました。日本にほんぐんつづけていましたが、初枝はつえさんもどもたちも「日本にほんかならつ」としんじていたそうです。

45ねんがつ1日ついたち、ついに沖縄おきなわ本島ほんとうべいぐん上陸じょうりくします。初枝はつえさんはははとも大里おおさとそんげん南城市なんじょうし真境名まじきなごう避難ひなんしました。教師きょうし校内こうないつくられた防空壕ぼうくうごう避難ひなんすることになっていましたが、ははが「シンシーター(先生せんせいたち)と一緒いっしょごうはいりたくない」と反対はんたいし、渋々しぶしぶ知人ちじんのいる真境名まじきなごうくことになったのです。その判断はんだんいのちすくいました。

同僚どうりょうに『おかあさんのうことをいたほうがいい』とわれて真境名まじきなったわけ。その学校がっこうごうべいぐん攻撃こうげきけて先生せんせいたちはくなってしまった。わたし間一髪かんいっぱつたすかった」

 

地獄じごく」を

がつ下旬げじゅん日本にほんぐん首里しゅり司令しれい放棄ほうき南部なんぶ撤退てったいします。べいぐん南部なんぶ一帯いったいもう攻撃こうげきします。初枝はつえさんもみなみへとげ、められていきました。

避難ひなんしゃでごったがえみちに、べいぐん容赦ようしゃなく爆弾ばくだんとしました。「たまちると、おまつりみたいにたくさんいたひと1人ひとりもいなくなる。べいぐんには絶対ぜったいかなわないとおもった」と当時とうじ気持きもちをかたります。

たどりいた海岸かいがんかくれる場所ばしょはなく、いわかげひそめました。アダンの木陰こかげにはたくさんの死体したいがあり、おさなんだ母親ははおやのおちちをねだっていていたといいます。「沖縄おきなわせん地獄じごくだよ」とつよ口調くちょうかえります。

うみにはべい艦船かんせんがずらりとならび、投降とうこう勧告かんこくつづけていました。いわかげやすんでいると、らない日本にほんへいじゅうけられました。「わたしをスパイだとうたがってとうとしていた。兵隊へいたいめられておこっていた。おれたちもぬ。あんたたちもになさいとって。わたしもおかしくなっているから、もうんでもいいとおもった」と覚悟かくごしたそうですが、となりにいたひとが「このひと先生せんせいだよ!」とってくれたおかげでたれずにすんだといいます。

その戦場せんじょうをさまよいました。あるときわか日本にほんへい2人ふたりはは4人よにん横並よこならびでやすんでいると、突然とつぜんはは初枝はつえさんのをぐいっとげました。つぎ瞬間しゅんかん親子おやこりょうわきすわっていた日本にほんへい2人ふたりがバタリとたおれたのです。ると間近まぢか米兵べいへいがおり、射殺しゃさつしたようでした。初枝はつえさん親子おやこべいぐんつかまり、佐敷さしきそん屋比久やびく収容しゅうようしょへとおくられました。

ぶん写真しゃしん 赤嶺あかみね玲子れいこ

 

どもたちへ 戦争せんそうのない社会しゃかい

初枝はつえさんは、いまなかて「また戦争せんそうになるんじゃないか」と不安ふあんかんじるといいます。どもたちにつたえたいことは「戦争せんそうはどんなことがあってもしてはいけない」。そのひとこときるとちからめます。

みなさんはしっかり歴史れきしまなび、どうすれば戦争せんそうきない社会しゃかいになるかをかんがえてほしい。そうすれば、みんながきやすい社会しゃかいになるとおもいます」とかたりました。

 

先生せんせいどもも戦争せんそう準備じゅんび動員どういん

1941ねん小学校しょうがっこうは「国民こくみん学校がっこう」とあらためられ軍事ぐんじ教育きょういくおこなわれます。44ねん日本にほんぐん沖縄おきなわ配備はいびされると、学校がっこう兵舎へいしゃになり、どもたちはまなうしないました。

さらに、地上ちじょうせんそなえて教師きょうし生徒せいと陣地じんち構築こうちく飛行場ひこうじょう建設けんせつされました。沖縄おきなわせんになると、軍隊ぐんたい重要じゅうよう情報じょうほうである陣地じんち場所ばしょなどをっている住民じゅうみんたちは、日本にほんへいから「てき情報じょうほうらすのではないか」とうたがわれることもありました。

(2018ねんがつ10日とうか掲載けいさい