宮城初枝さん(95)は1923年(大正12年)に佐敷村(現南城市)津波古で生まれました。
佐敷尋常小学校を卒業後、12歳で真和志村(現那覇市)安里の県立第一高等女学校に進学しました。「図書館やプールもある立派な学校だった。バスケット部では選手になれなかったけど楽しかったさ」と瞳を輝かせて語ります。
その頃、日本は中国と戦争を続けていました。体育の授業では銃を持ち、敵が来たら殺せと教えられました。「いつ敵を前にしても殺すことができるぞという気持ちだった」と言います。
沖縄からも青年たちが戦地に送られましたが、戦争の実感はなく、「平和」だと感じていました。
死と隣り合わせ
学校を卒業し19歳の時に大里第二国民学校の先生になりました。
沖縄戦が間近になると、6年生を連れて学校近くの森に行き壕を掘りました。「毎日、朝から夕方まで壕堀り。授業は全くできなくなった」と言います。学校には兵隊が泊まり、先生たちはごはん作りなどを手伝いました。
初枝さんは母と九州に疎開する準備を進めていましたが、校長先生に「沖縄は誰が守るのか」と怒られ、あきらめました。日本軍は負け続けていましたが、初枝さんも子どもたちも「日本は必ず勝つ」と信じていたそうです。
45年4月1日、ついに沖縄本島に米軍が上陸します。初枝さんは母と共に大里村(現南城市)真境名の壕に避難しました。教師は校内に造られた防空壕に避難することになっていましたが、母が「シンシーター(先生たち)と一緒の壕に入りたくない」と反対し、渋々、知人のいる真境名の壕に行くことになったのです。その判断が命を救いました。
「同僚に『お母さんの言うことを聞いた方がいい』と言われて真境名に行ったわけ。その後、学校の壕は米軍の攻撃を受けて先生たちは亡くなってしまった。私は間一髪で助かった」
「地獄」を見た
5月下旬、日本軍は首里の司令部を放棄し南部へ撤退します。米軍は南部一帯を猛攻撃します。初枝さんも南へと逃げ、追い詰められていきました。
避難者でごった返す道に、米軍は容赦なく爆弾を落としました。「弾が落ちると、お祭りみたいにたくさんいた人が1人もいなくなる。米軍には絶対かなわないと思った」と当時の気持ちを語ります。
たどり着いた海岸に隠れる場所はなく、岩陰に身を潜めました。アダンの木陰にはたくさんの死体があり、幼い子が死んだ母親のお乳をねだって泣いていたといいます。「沖縄戦は地獄だよ」と強い口調で振り返ります。
海には米艦船がずらりと並び、投降勧告を続けていました。岩陰で休んでいると、知らない日本兵に銃を突き付けられました。「私をスパイだと疑って撃とうとしていた。兵隊は追い詰められて怒っていた。俺たちも死ぬ。あんたたちも死になさいと言って。私もおかしくなっているから、もう死んでもいいと思った」と覚悟したそうですが、隣にいた人が「この人は先生だよ!」と言ってくれたおかげで撃たれずにすんだといいます。
その後も戦場をさまよいました。ある時、若い日本兵2人と母と4人で横並びで休んでいると、突然、母が初枝さんの手をぐいっと持ち上げました。次の瞬間、親子の両脇に座っていた日本兵2人がバタリと倒れたのです。見ると間近に米兵がおり、射殺したようでした。初枝さん親子は米軍に捕まり、佐敷村屋比久の収容所へと送られました。
文・写真 赤嶺玲子
子どもたちへ 戦争のない社会を
初枝さんは、今の世の中を見て「また戦争になるんじゃないか」と不安を感じるといいます。子どもたちに伝えたいことは「戦争はどんなことがあってもしてはいけない」。その一言に尽きると力を込めます。
「皆さんはしっかり歴史を学び、どうすれば戦争が起きない社会になるかを考えてほしい。そうすれば、みんなが生きやすい社会になると思います」と語りました。
先生も子どもも戦争の準備に動員
1941年に小学校は「国民学校」と呼び名を改められ軍事教育が行われます。44年に日本軍が沖縄に配備されると、学校は兵舎になり、子どもたちは学ぶ場を失いました。
さらに、地上戦に備えて教師も生徒も陣地構築や飛行場建設に駆り出されました。沖縄戦になると、軍隊の重要な情報である陣地の場所などを知っている住民たちは、日本兵から「敵に情報を漏らすのではないか」と疑われることもありました。
(2018年6月10日掲載)