【評伝・新垣雄久さん】沖縄の戦後行政を体現 「情と理」福祉の心貫く


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
県戦没者慰霊奉賛会から県平和祈念財団への名称替えに伴い、表札を掛け替える新垣雄久氏(左)=2006年7月、糸満市摩文仁

 琉球政府から沖縄県まで激動の沖縄の戦後史を文字通り体現した人生だった。

 32年間の公務員時代、多くのポストに就いた。とりわけ「福祉の新垣」と異名を取るほど、遅れていた福祉行政に力を尽くした。その原点は沖縄戦にある。

 父は軍医として沖縄戦に召集された。母と弟妹を沖縄に残し、祖父母や弟らと共に愛知県に縁故疎開した。軍需工場に動員され、沖縄へ出撃する特攻機を製作した。

 戦後、沖縄に引き揚げると両親弟妹5人が戦争の犠牲になっていた。「この世を恨んだ。戦争に対するたまらない憤りを感じる」と語っていた。時が経つうちに県民がほとんど同じ境遇にあることを知り、弱者に寄り添う福祉の充実に取り組む。

 戦後、密造酒で生計を立てながら知念高校に編入した。そこで人生の師と出会う。後の主席、県知事に就任する屋良朝苗校長だ。屋良氏に「ゆうきゅう」と呼ばれ薫陶を受けた。屋良氏は、米統治下で将来を展望できず悩む学生たちに、必ず日本復帰するという目標を示し激励した。

 その屋良氏が「即時無条件全面返還」を掲げ主席公選に立候補する時、直言した。「先生の性格に合わないからやめたほうがいい」。屋良氏が当選すると有能な官吏として裏方で支えた。

 屋良、平良幸市と続いた革新県政から西銘保守県政に交代しても、貫いたのは行政の一貫性だった。私は駆け出し記者時代に西銘県政を担当した。その時の副知事が新垣さんだった。

 副知事退任後、県教育長時代の思い出を聞かせてくれた。主任制問題に決着をつけるため西銘順治知事に異動を命じられたのだという。「最大の被害者は児童生徒であり保護者」と渋い顔をしていた。

 西銘知事の先見の明を高く評価していた。「いろんな情報を集め、これだという企画をまとめる能力がずばぬけている」。「ヤマトンチュに負けるな」とはっぱをかける西銘知事。その県政の副知事として世界のウチナーンチュ大会、県立芸大開学、首里城復元、コンベンションセンター建設などあっと驚く事業を事務方で支えた。

 好きな言葉は「情と理」。中曽根内閣で官房長官を務めた後藤田正晴氏の回顧録の表題だ。「情」は政治家、「理」は官僚。新垣さんは「どちらが欠けてもいけないし、どちらに偏ってもいけない」と言う。一線から退いた後は、行政が時の政治に左右されることを何より憂いていた。

 晩年は腰を痛めて、歩くこともままならなかった。2018年、米寿を機に回顧録を出版した。巻頭の言葉が新垣さんらしい。「育てられ、励まされ、支えられてきた。苦労が私をここまで育ててくれた。人生に悔いなし」
 (論説委員長・宮城修)