「崇元寺を復元して」元住民4きょうだい、沖縄戦直前の思い出を今も


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御茶屋御殿跡を訪れた(左から)上江洲隆さん、仲宗根貞子さん、上江洌正子さん、奥平道子さん=6月、那覇市首里崎山町(吉浜秀彦さん提供)

 【那覇】琉球国王の位牌(いはい)を安置していた崇元寺(那覇市泊)で、沖縄戦によって同寺が焼失する直前まで暮らしていた人たちがいる。那覇市に住む奥平道子さん(90)、弟の上江洲隆さん(88)、妹の上江洌正子さん(85)、仲宗根貞子さん(83)のきょうだいだ。市は2月に崇元寺跡の発掘調査をし、国の史跡指定を目指している。隆さんらは調査を喜び「将来、崇元寺を復元してほしい」と願っている。

 隆さんらは警察官だった父・上江洲謙さんの転勤に伴い、1940年に南大東島から那覇へ引っ越した。母方の祖父・平良良政さんは尚家で働き、崇元寺に住みながら管理をしていた。上江洲家も転勤を機に崇元寺に移り住んだ。

 良政さんは崇元寺に住む前は御茶屋御殿に住みながら管理をしていた。御茶屋御殿は王国時代、冊封使の歓待などに使われた王家の別邸だ。隆さんらの母・信子さんは両親の住む御茶屋御殿で隆さんを産み、しばらく暮らしたという。隆さんに記憶はないが、道子さんは当時を少し覚えており「御茶屋御殿から識名園が見えた」と振り返る。

上江洲さんらが暮らした崇元寺の庫裏の遺構。那覇市の発掘調査で確認された=2月、那覇市泊

 良政さんは御茶屋御殿や崇元寺から尚家の邸宅である中城御殿に通勤した。道子さんは祖父に弁当を届ける祖母ツルさんに付いて行き、中城御殿で遊んだ思い出がある。

 崇元寺では庫裏(寺院の住居部分)に住んでいた。正廟(せいびょう)は普段閉まっており、祭事の時だけ開けて、尚家の人が拝みに来た。正廟内は赤い位牌がたくさん並んでいたという。戦争が迫ると、崇元寺内の東側に防空壕を造った。

 信子さんと子どもたちは44年8月に熊本に疎開した。同年の10・10空襲で謙さんと良政さん、ツルさんは崇元寺の壕に隠れ、難を逃れた。謙さんの手記によると、45年3月にツルさんも熊本へ疎開し、良政さんは崇元寺に帰らず「泊まり込みで尚家を警備した」という。疎開した人も沖縄に残った人も家族全員が生き延び、隆さんは「崇元寺に手を合わせていたおかげだ」とほほ笑む。

 市の発掘調査をきっかけに、今年6月にきょうだいそろって崇元寺跡や御茶屋御殿跡を訪れた。戦後、良政さんは口癖のように「崇元寺を復元させないといけない」と話していたという。隆さんらは「崇元寺の復元は祖父の夢だった。実現してほしい」と願った。


<用語>崇元寺

 琉球国王の位牌(いはい)を安置した国廟(こくびょう)で、1527年ごろに創建されたと考えられている。琉球国王即位のために中国の冊封使が琉球を訪れた際、亡くなった先王をまつる儀式が崇元寺で執り行われた。戦前は国宝に指定されていた。1945年の沖縄戦で建物部分は焼失し、焼け残った石門や石垣は国の重要文化財に指定されている。