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「キャラウェイ旋風」の沖縄で 通訳を拒否した意地 元USCAR職員・真栄城美枝子さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
「米国人たちは復帰すれば沖縄はどん底に落ちると言っていた」と振り返る真栄城美枝子さん=7月12日、米メリーランド州ベセスダ

 「布令を出す」-。女性がまくしたて始めた。米国民政府(USCAR)公衆衛生福祉部の看護顧問の米国人女性だった。
 1963年、准看護制度がなかった日本復帰前の沖縄。看護顧問の女性が制度導入を告げると、正看護師らは「医療の質が低下する」と反対した。
 監護顧問は議論をしようとせず「キャラウェイ高等弁務官の名で布令を出す」と何度も繰り返すだけ。看護師らを押さえつけようとするその高圧的な態度に反発し、USCAR職員の真栄城美枝子(85)は通訳を拒否した。

 1961年2月に沖縄統治の最高責任者として赴任したキャラウェイ高等弁務官は「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言。住民の自治権を軽視し、USCARの法令である布令をことあるごとに発令して琉球政府の権限を制限した。
 米国留学帰りの美枝子が貿易会社を経て、公衆衛生助手としてUSCARで働き始めたのは同年の秋だった。「キャラウェイ旋風の影響で米国人は威張っていた」と美枝子は振り返る。
 専門外の公衆衛生学や看護などについて学びながら通訳をこなした。上司の看護顧問から信頼され、業務外の子どもの世話を頼まれることもあった。

コロラド大留学中にスケートを楽しむ真栄城美枝子さん(本人提供)

 通訳を拒否してからしばらくたって、看護顧問は美枝子のために奨学金を用意した。公衆衛生学で著名なミシガン大学への留学の提案だった。
 「亀裂は決定的になっていたので私を追い出したかったんでしょう。でも、私は彼女の恩はかぶりたくなかった」。美枝子はいったんは提案を放置した。だが、看護顧問は米軍の特殊部隊だった夫の本国勤務に伴い帰国することになった。准看護婦制度導入の布令もうやむやになった。

 そんな状況下でも美枝子の奨学金の権利は残っていた。通訳の仕事を通して公衆衛生学を本格的に学びたいと感じていた。USCARに在籍したまま64年に留学し、66年に修士号を取得。沖縄に戻って専門家として働き始めた。
 その後、結婚を機に再び渡米した美枝子。子育てに奮闘しながら米国立衛生研究所で長年勤務し、離婚も経験した。
 来年で沖縄は日本復帰50年を迎える。美枝子はキャラウェイ旋風が吹き荒れた復帰前の沖縄を、昨日のことのように思い出す。

(文中敬称略)

(松堂秀樹)

▼(その2)「壁」はアメリカから日本になった 遠い地から思う故郷