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「壁」はアメリカから日本になった 遠い地から思う故郷 元USCAR職員・真栄城美枝子さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
「ウーマンリブ」など米国で体験した社会運動について語る真栄城美枝子さん=12日、メリーランド州ベセスダ

(1)「キャラウェイ旋風」の沖縄で 通訳を拒否した意地から続く

 米首都ワシントンDCの近郊のメリーランド州ベセスダ。自宅のリビングでオンラインの取材に応じた真栄城美枝子(85)は「そろそろ断捨離しなければ」と笑う。
 ワシントン周辺在住の沖縄出身者やその家族だけでなく、沖縄好きの関係者も入会するワシントンDC沖縄会の立ち上げに関わり、歴代の沖縄県知事がワシントンを訪問した際は歓迎会を催すなど常に古里に心を寄せてきた。

 1967年。勤務先の米国民政府(USCAR)で知り合った米国人男性との結婚を機に渡米した。72年に沖縄が日本復帰したときは子育て中心の生活を送っていた。

 米国や日本からの差別は肌身で感じてきたからこそ大切にしているのは「劣等感を持たないこと」。2016年に、米軍北部訓練場のヘリパッド建設を巡って警備に当たる大阪府警の機動隊員が抗議活動参加者に対し「土人」と発言していた問題に触れ「もともと沖縄は、その島の土着の人たちのもの。『土人で結構。われわれの土地から基地を撤去せよ』と主張すべき」と語気を強める。

ヘリパッド建設に抗議する市民らをごぼう抜きする機動隊員=2016年10月、東村高江

■少女の夢は従軍看護婦

 美枝子もかつては、アジア太平洋戦争戦前の国民学校で教育を受けた当時の子どもたちと同じように軍国少女だった。

 父親は満州国の電報電話局職員だった。美枝子が新民県在満国民学校3年の頃。敗戦が濃厚となり、ソ連軍が満州国に侵攻してきた。関東軍は開拓民を置き去りにし、南部方面に撤退していた。満州人による日本人家屋の略奪も始まった。避難するため乗り込んだ貨車も襲われ、若い女性たちはソ連兵たちに連れ去られた。

 貨車に残った日本人家族は「集団自決」の準備をした。その時、美枝子の隣にいた女児が「死にたくない」と泣きわめいた。びっくりしたソ連兵が機関車を動かしたため略奪の被害を避けることができ、「自決」には至らなかった。

「軍国教育を受けていましたから従軍看護婦になりたいという夢がありました。でも、そんなものは敗戦と同時に消えました」

満州で撮影した家族の集合写真。前列中央が真栄城美枝子さん=1939年(本人提供)

■テント生活に安らぎ  

 日本に帰国できたのは終戦後の1946年4月。その年の12月に、一家はようやく日本軍の駆逐艦だった船で沖縄に向かった。上陸前に殺虫剤のDDTを頭からかけられてから、ようやく古里の地を踏むことができた。

 祖母が涙を流して迎えてくれた。祖母が暮らしていた那覇で、かやぶきの家の裏にテントを張って生活を始めた。

 激しい地上戦の跡が残る街は荒廃していたが、「よく帰ってきた」と皆笑顔で迎えてくれた。 長崎・佐世保で感じた引き揚げ者への冷たい視線はなく、孤立感はなかった。「衣食住のあらゆる物が欠乏していたが、来るべき所に帰ってきたという安堵感があった」

 「靴もなかった。米軍トラックのタイヤでできた草履が私の履物だった」。雨になると裸足になって、転入先の壺屋初等学校に通った。

 食料がなく、母たちは遠い糸満までサツマイモを買いに出掛けた。父はラジオ修理工として働き始めた。「父にぴったりとくっついて仕事を観察していると『あっちに行きなさい』と言われたけど、それでも楽しくて」と美枝子は笑う。

収容所のテントでDDT(殺虫剤)のスプレーをかけてシラミを取っているところ=1945年4月24日、伊江島(沖縄県公文書館所蔵)

■肌の色が違っても

 那覇中、那覇高と進み、琉球大に進学。卒業後の1959年に米コロラド大に留学した。ベトナム戦争以前の米国は楽観的な空気に満ちあふれていた。

 「沖縄は軍用地問題や日本復帰などを巡って学生運動が盛んだった。米国でもそうだろうと思っていたがそんな話を持ち出す雰囲気は皆無だった」

 米国人やアジアの留学生と交流し、国境を越えた友情を育んだ。「復帰前の沖縄では米国人は『お上』だった。留学で、肌の色が違っても皆同じ人間だということを実感した」

 帰国後、貿易会社を経て就職したのがUSCARだった。「公衆衛生助手」という肩書の美枝子に任された仕事は、米国人の看護婦顧問の通訳。月給は60ドルだった。  琉球政府の公衆衛生看護婦や臨床看護婦の指導に当たる看護顧問の言葉を正確に通訳するため、必死に公衆衛生や看護についても学んだ。

 当時、琉球政府は公衆衛生看護婦を各市町村に配置していた。美枝子は米国人の看護顧問と共に県内各地を巡回した。八重山へは弁務官の特別機に乗って向かったが、西表島に行く際に高等弁務官のボートには乗せてもらえなかった。

 「乗船はアメリカ様だけ。私は小さな漁船に乗って、揺れにわめきながら死ぬ思いでなんとか到着した」

地域の環境衛生の実態を西銘順治那覇市長(当時)らと視察するキャラウェイ高等弁務官ら=1962年10月29日、那覇市内

 〝キャラウェイ旋風〟下の米国人の高圧的な態度を目の当たりにしたことは一度や二度ではない。USCARの公衆衛生部長の軍医が、琉球政府の公衆衛生部課長の医師と会議した日の出来事も記憶に残る。会議が終わるなり、軍医は「琉球政府職員はみんな軍作業員だ」と息巻いて出て行った。

 准看護師制度の導入を巡り、美枝子が上司の看護顧問の通訳を拒否したのは働き始めて2年ほどたったころのことだった。「沖縄の人をだいぶ下に見ていたのでしょう。キャラウェイ旋風の影響でアメリカ人は威張っていた」

■崩されない自分を

 公衆衛生学を専門に学びたいと、USCARに在籍しながら、ミシガン大に留学して修士号を取得した。沖縄に戻り、公衆衛生学の専門家として看護学校で教べんを執るなど感染対策の第一線で働いた。

 職場の米国人男性と出会い、結婚を機に67年に渡米。子どもたちが小学校に入学した頃に専門職を探し始めた。そしてコミュニティーカレッジでコンピューターのプログラミングを学び、公衆衛生学とコンピューターの専門家として米国立衛生研究所などで働いた。

 異国で基盤を築いたが、結婚生活は27年で終焉(しゅうえん)を迎えた。離婚の時期に通っていたカウンセリングで医師に言われた言葉は美枝子にとって新たな指針になった。「何があっても崩されることのない自分をつくること」

長女のマリさん(右)と次女のケイティさん(左)と=2016年(真栄城美枝子さん提供)

■基地のない沖縄を…  

 ワシントンDCやその近郊に、ウチナーンチュや沖縄好きの人たちが集えるようにと、83年に立ち上げた「ワシントンDC沖縄会」では計3回、会長を務めた。

 会員の親睦だけでなく琉球舞踊やエイサーなど沖縄文化を学ぶ場も設けてきた。

 米軍人との結婚でワシントン近郊に移住した沖縄戦体験者にインタビューし、体験記を日本語と英語で紹介する活動にも取り組んだ。「『基地の島・沖縄』の歴史と現状を広く知ってもらうため、できることをしたい」という思いを抱き続けている。

訪米した当時の沖縄県知事・仲井真弘多氏(前列中央)を歓迎する真栄城美枝子さん(後列右から3人目)らワシントンDC沖縄会のメンバー=2009年1月、米バージニア州マクリーン

 長女のマリ(51)と次女のケイティ(49)は離れて暮らすが、孫たちを連れて訪ねて来ることも。孫たちの成長を見守り、那覇高8期生のメーリングリストで同級生たちとのやりとりを楽しむ美枝子だが、沖縄を思うとき、胸がつかえる。

 「知事は訪米して米軍普天間飛行場問題の見直しを求めるが、米政府は『日本の国内問題だ』と片付けるだけ。日本政府や本土の人にもっと働き掛けて彼らの意識を変えることはできないだろうか」

 「復帰は必ずするべきだった」と振り返るが、ヤマト世に移り替わると同時に、「壁」が米国から日本になったとも感じる。「基地のない沖縄…。自然を破壊してまで基地を拡張している日本政府に憤りを感じます。悲しいことです」。静かな口調に、やるせなさがにじんだ。

(敬称略)
(松堂秀樹)
 

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