「リンリンリリーン、リンリンリリンリン」。12歳の晃が透き通るハイトーンボイスを響かせると、待ちかねたファンの歓声が会場を包む。
1974年2月、具志川市(現うるま市)の復帰記念会館で開かれたフィンガー5の帰郷チャリティー公演。地元の具志川をはじめ、各地のウチナーンチュが会場を埋めた。
「ただいま帰ってきました」。メンバーが叫び、子どもや若い女性から「アキラー」「ターコ」と甲高い歓声が上がる。前年の「個人授業」のブレークから、瞬く間に全国を席巻した沖縄生まれのソウルロックを「恩返し」のために沖縄で披露した瞬間だった。
「父が泣くのを見たのは初めてだった」。三男の玉元正男(62)が振り返る。1972年、父の松市がテレビで見ていたのは沖縄の復帰を伝えるニュースだった。上京から4年、東京で音楽活動を続けていたきょうだい(一夫、光男、正男、晃、妙子)は行き詰まっていた。沖縄でAサインバーを繁盛させていた生活をなげうち、家族で故郷を離れ、きょうだいの夢を支えた父にも疲れの色が濃くなっていた。
米軍基地を巡る演奏を経て「ベイビーブラザーズ」として70年にデビュー、複数のレコードを出した。しかし売り上げは数万枚にとどまった。沖縄のAサインバーで演奏した頃とは様変わりし、童謡風の歌だった。
基地内で大受けのソウルロックが、東京の人々には通じない。物珍しさで人だかりができても、英語の歌が始まると散っていく。次第に「内地」に合わせ、童謡風に歌うようになった。
父は「内地ではもう無理だ。帰ろう」とこぼした。涙を流す父を見て、家族は家財道具を沖縄に送り返した。その頃だ。連日、家に出入りして父と話し込む男性がいた。時には泊まり込んだ。帰郷を思いとどまるよう説得したのは音楽プロデューサーの井岸義測だった。
「この子たちにはものすごい才能がある」。熱意に押され父は翻意した。72年7月のことだ。
(敬称略)
(宮城隆尋)
フィンガー5 編(2)ミリオン連発、公演中に救急搬送も 「命を削って歌った」6年間 に続く
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