【写真特集】世替わり前後の沖縄は…アメリカから日本へ 写真で振り返る復帰


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 玉城江梨子

 5月15日は、沖縄の施政権が米国から日本に返還された「日本復帰の日」。1972年5月15日の「世替わり」前後の沖縄はどんな様子だったのか。人々の生活はどう変わったのか。琉球新報に所蔵されている写真から振り返る。

■日米の案は5月15日ではなかった!

沖縄返還が5月15日に決まり、号外が発行された=1972年1月8日、那覇市内

 「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていない」と佐藤栄作首相が述べてから6年。1972年1月8日(日本時間)に佐藤首相とアメリカのニクソン大統領が、5月15日の復帰を発表した。沖縄の「本土並み・1972年」の返還は69年11月に決定していたが、返還の日は未定だった。「5月15日」という日付は年度の区切りがいい「4月1日」を望んだ日本と、会計年度が始まる「7月1日」を希望したアメリカの中間の日付だった。

 復帰の日が決まり、屋良朝苗主席は「今日までの日米両政府首脳の理解と協力に感謝」すると同時に、米軍基地の整理縮小、撤去による平和な沖縄県の回復に取り組むよう日本政府に求めた。

■切手求めて人!人!人!

琉球政府郵政庁最後の琉球切手発売で大混雑=1972年4月21日

 日本復帰で消えたものの一つに「琉球切手」がある。米施政権下の沖縄では日本に切手が使えなかったため、1948年から72年までの間、沖縄独自の切手が発行されていた。

 沖縄の本土復帰まで1カ月を切った1972年4月20日、那覇市寄宮の那覇東郵便局前に、最後の琉球切手を求め1万人の群衆が殺到した。道路は車で埋まり交通まひ。けが人数人、卒倒する人まで出た。世界でも例を見ない、切手上部に英文字で「ファイナル・イシュー(最終発行)」と書かれた最後の琉球切手は琉球郵政庁が48年の発行開始以来248番目。これを最後に琉球切手は姿を消すため投機家やマニアのほか、子どもからお年寄りまで一枚でも多く手に入れようと長蛇の列をつくった。

 しかし、最後の切手は350万枚も発行されたため、市場価格は上がらなかった。将来値が上がると熱狂した人々の予測は大きく外れた。

■540億円の現金が沖縄へ

日銀那覇支店に540億円を輸送するトラック=1972年5月2日、那覇軍港入り口

 復帰に伴い、通貨は米ドルから日本円に換わる。そのため現金540億円を積んだ海上自衛隊のLST(揚陸艦)2隻が、5月2日早朝、東京から那覇軍港に到着した。2、3の2日間をかけ、540億円が港から約1キロ離れた那覇市松山の日銀那覇支店へ搬入された。沿道では拳銃やカービン銃を携帯した総勢201人の琉球警察の警官が警備した。「史上最大の現金輸送作戦」と称されたこの作業。だが、トラックの行き交う様子を目にした市民の反応は冷ややかなものだった。

 15日から実施された通貨交換のレートは1ドル=305円で、住民が求めた360円とはほど遠いものだった。個人資産など360円が補償されたものも一部あったが、復帰に際して住民は大きな犠牲を強いられた。

大輸送作戦で沖縄に入ってきた円の初披露。これでしめて1億7千万円余=1972年5月4日、那覇市の日銀那覇支店

■「沖縄の帝王」去る

ランパート高等弁務官離任式=1972年5月10日

 5月12日午後、北中城村のキャンプ瑞慶覧で米民政府の解散式が行われ、最後の高等弁務官ランパートは屋良朝苗琉球政府主席に最後のあいさつをした。

 高等弁務官とは米軍統治下の1957年から72年までの間、設置された沖縄統治の最高責任者。米国防長官が国務長官に諮り、大統領の承認を得て現役の軍人から選任された。司法、立法、行政の全権を掌握。琉球政府行政主席・一般職員の罷免、法令制定・改廃、立法法案の拒否、裁判所移送などの権限を行使できるなど絶対的な権限を持ち、「沖縄の帝王」とも称された。

 沖縄が日本に復帰する72年までの15年間で、6人の中将が高等弁務官に就任した。初代はジェームズ・E・ムーア(57年7月4日着任)。続いてドナルド・P・ブース(58年5月1日)、ポール・W・キャラウェイ(61年2月16日)、アルバート・ワトソン(64年8月1日)、フェルナンド・T・アンガー(66年11月2日)、ジェームズ・B・ランパート(69年1月28日〜72年5月14日)だった。

■買いだめ協奏曲

復帰前夜で買いだめが急増したため港の入荷量がどっとふえた=1972年4月21日、那覇商港

 復帰後の物価上昇を懸念し、各地で買いだめが起きた。特に外国から輸入されているポークなどの缶詰類やソーセージ、コーヒー、チューインガム、マヨネーズ、ミルクなどが高くなると予想。5月13日に1ドル対305円の交換率が発表されたこともあり、価格の落ちたドルを円に換えるより、安い外国の食料品を買いだめしていた方が得との思惑から買いだめに拍車がかかった。それに対し、便乗値上げも起きた。

■5月15日…復帰の日の沖縄は

復帰の日の国際通り

 5月15日午前0時、沖縄の復帰を告げるサイレンと汽笛が一斉に鳴り響いた。この日の琉球新報朝刊1面は「変わらぬ基地 続く苦悩」「沖縄県 厳しい前途」「なお残る『核』への不安」「いま祖国に帰る」の見出しで、悲願だった「祖国復帰」を果たしたものの、米軍基地の存在は変わらず、県民が望んだ復帰の形ではないことを伝えた。

 最後の行政主席で、この日から「知事」となった屋良朝苗知事は「沖縄県民のこれまでの強い要望と心情に照らして復帰の内容を見るとき、そこには軍事基地の問題をはじめ、実際には多くの問題が未解決のまま残されており、県民の立場からすると決して満足できるものではない」という公式談話を発表した。

内外の各界代表1200人が参列して開かれた政府主催の復帰記念那覇式典=1972年5月15日、那覇市民会館

 復帰に伴い、県民生活に大きく影響したのが通貨だ。米ドルから日本円への切り替えは5月15日から20日まで、県内の金融機関各支店、郵便局など190カ所で実施された。交換所は大勢の人でごった返した。

折からの雨をついて手持ちのドルを円に交換するため詰めかけた人びと=1972年5月15日、沖縄銀行開南支店
窓口でドルを円に換える人

 役所、郵便局、銀行は15日から円しか使えなくなった。商店での買い物などは1週間はドルと円が併用できる「調整期間」とされたが、円とドルの2本立てでは作業が繁雑になることから、15日の商店街にはすでに「ドルお断り」の張り紙も。

 デパートにも通貨交換所は設置された。店内ではあちこちに「円で最初のお買い物」と張り出された。デパート店内の通貨交換所は日銀指定のものではなく、デパート側が客の利便性を考慮した私設の交換所。商品の値段を全部円表記にしたため、ドルで代金を受け取ると換算トラブルが起こる可能性があることから、円だけで代金を受け取ることに。ドルしか持たない客のために、デパート側が15日午前9時の交換開始と同時に大量にドルを円に交換し、店内に通貨交換所を設置した。

デパート三越玄関にもドルから円への通貨交換所が設置された=1972年5月15日
ドルから円への通貨切り換えで買い物客が町へ繰り出す=1972年5月15日
国際電話は家庭の電話機からダイヤルで直通になった。琉球電電公社は国際電話の簡素化に設備を増設したが、復帰直後の多忙に備えて本土からベテラン交換士が10人応援にやってきた。
雨の中、約1万人の抗議のデモがくり広げられた=1972年5月15日、那覇市の国際通り
米軍基地内に日の丸が掲げられた=1972年5月15日

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