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ミリオンヒット連発、公演中に救急搬送も 「命を削って歌った」6年間<復帰半世紀 私と沖縄>フィンガー5 編(2)


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
発売から半年足らずで100万枚のヒットを飛ばした「個人授業」のジャケット(玉元正男さん提供)

元祖沖縄出身アイドルが見た日本復帰 崖っぷちから空前のブームから続く) 

 スタジオで2人の男性が座り、こちらを見ていた。その背後に、背広を着た大人たちが直立不動で並ぶ異様な光景だった。「君たちの好きなものをやってごらん」。2人に言われ、フィンガー5のメンバーは「どうせもう帰るのだから遠慮する必要もない」とトム・ジョーンズやジャクソン5の曲を演奏した。躍動感に満ちたソウルロックだ。

 2人は5分もしないうちに立ち上がり、背後の大人たちに耳打ちして帰っていった。2人は作詞家の阿久悠、作曲家の都倉俊一だった。正男(62)は後日、その大御所2人が「ぜひ(作詞、作曲を)やらせてほしい」と言っていたことを聞かされている。

 そして生まれたのがヒット曲「個人授業」だ。正男は本意ではない童謡を歌ってきた経緯から、この時も「どうせいい曲は来ない」と思っていた。だが届いた曲を聞き、音楽への気持ちが再び燃え上がった。「この曲をやりたい。おれたちのやりたいことを認めてくれる人がいるんだ」

 晃(60)は「ませた生意気な子どもがテーマの歌詞。僕そのものだと思った」と語る。ただ曲はインテンポ(一定の調子)で、そのまま歌うと童謡風になる。「ボーカルに遊びを入れ、ソウルフルに歌った」と語る。レコーディングも意見が尊重され、メンバーは伸び伸びと演奏した。

 「個人授業」は73年8月の発売から半年もたたず100万枚を突破。同年12月発売の「恋のダイヤル6700」、74年3月の「学園天国」も立て続けにミリオンセラーとなった。沖縄仕込みの洋楽の息吹を日本の音楽界に吹き込んだ、フィンガー5の旋風だった。

初めてのレコーディングに臨む「ベイビーブラザーズ」の5人(玉元正男さん提供)

■父が抱えた大量のドル札

 フィンガー5の5人は、Aサインバーを経営していた父・松市と母・ヒサエの下に、具志川で生まれた。

 幼い頃から洋楽に囲まれて育った。テレビでジャクソン5などの演奏を視聴し、両親のバーに行けばジュークボックスから洋楽が流れた。楽器のかわりにほうきを抱え、洗面器や鍋をたたき、英語の歌も聞こえたまま歌った。6人きょうだいのうち、長姉を除く5人が音楽にのめり込んだ。

 きょうだいは店にあった多くの音源から、父が印をつけたレコードを何度も繰り返し聞いた。英語の歌詞を聞こえたまま片仮名でメモし、覚えて歌った。正男は「聞こえたままに歌っていたから、発音はよかったらしい」と笑う。

 当時はベトナム戦争のまっただ中。両親のバーには連日、多くの米兵らが訪れた。戦場へ向かう直前の米兵もいた。お金を残しておく必要もないと考えたのか、多くの兵士が気前よくお金を使った。店の売り上げであろう大量のドル札を抱えた父の姿がきょうだいの記憶に残っている。正男は「本国に残してきた子どもを思い出したのか、感極まって泣く人もいた。『戦争に行きたくない』『このまま帰りたい』という気持ちだったのだろう」と振り返る。

 父の経営するバーで演奏していたバンドマンから楽器を学んだ。長男の一夫、次男の光男、三男の正男の小学生3人で「オールブラザーズ」を結成、バーで演奏した。66年に沖縄テレビ「歌謡ワンダフルショー」エレキ部門で優勝し、番組スタッフから東京行きを勧められた。家族会議で上京を決め、パスポートを取った。旅券には「アメリカ合衆国」「琉球政府」と書いてあった。

 那覇港を出たがビザの取得に手間取ったため、奄美で足止めを食らった。母の親類宅に半年間、身を寄せた。

激動の時代を振り返る元フィンガー5の晃さん=5月9日、東京都内

■不本意な「童謡グループ」から一変

 「沖縄って靴もないんだろう」。東京の小学校に転校した正男に、同級生が差別的な言葉を投げた。耳を疑った。沖縄に対するネガティブなイメージに直面し「ショックだった。50年たっても忘れられない。絶対に見返してやると思った」とエネルギーに変えた。

 家族が東京に入ったのは68年。九段の旅館や長屋に滞在した後、東村山市に移った。米軍基地が近く演奏に便利だったからだ。基地のゲート前で、一夫が「演奏させてくれ」と粘って機会を得ていた。69年頃、8歳の晃と7歳の妙子が加わり、5人で演奏するようになった。母・ヒサエが運転する車で基地を巡った。

 晃はこう振り返る。「最初は嫌々だった。基地での演奏は深夜0時までかかることも多い。学校を休まないのは両親との約束だから、朝はつらかった」。しかしある夜、歌声に感動した米兵たちが次々にドル札を投げてきた。演奏に対するおひねりだ。「本気で歌えば響くんだ」。手応えを感じた。

 基地での演奏は順調だった半面、東京の人々には受けが悪い。沖縄と違い、洋楽へのなじみが薄かった。「内地」向けに童謡風の歌で数枚のレコードを出したが、正男も晃も「楽しくなかった」と口をそろえる。

元フィンガー5の正男さん=5月10日、東京都内

 状況が変わったのは音楽プロデューサーの井岸義測ら、理解者を得て「ベイビーブラザーズ」から「フィンガー5」に改名してからだ。

 ある時、晃はラジオの収録で居合わせた歌手の布施明がサングラス姿で歌うのを目にした。「格好よかった」。伊勢丹の眼鏡売り場で一番大きなサングラスを買って隠し持ち、演奏直前にさっとかけてステージに出た。

 「長男がめちゃくちゃ怒っていた。でもディレクターが『格好いい。これからもかけてやるといいよ』と言ってくれた」。サングラスは晃のトレードマークになった。

 74年の沖縄での帰郷公演は家族の念願だった。具志川、那覇で公演し、収益から県社会福祉協議会に寄付した。故郷に恩返しができたと両親も喜んだ。光男(64)は「沖縄の人たちの応援はめちゃめちゃうれしかった。離れて暮らしても、心はいつも沖縄とともにあると確信した」と語る。

現在は美容師として働く光男さん=都内(本人提供)

■過労で倒れる小学生

 ヒット以来、生活は多忙を極めた。学校を終えると練習し、複数の公演に出演することも多かった。合間に取材を受け、深夜から未明にレコーディング。睡眠をほとんど取れない日もあった。小学生だった晃と妙子は公演中に倒れ、救急搬送されることもあった。

 「食べる時間も寝る時間もなく命を削って歌った。ステージで死ぬんだと思っていた」。過労で体重が激減した晃を診察した医師はマネジャーに怒鳴った。「こんな働かせ方、人としてどうなんですか」。 ただその激務も「楽しかった」と妙子(59)は振り返る。「ファンの子たちも同世代。彼女たちのきらきらした表情を見ていると、つらくても頑張ることができた」と語る。  

フィンガー5のブロマイドやステッカー(玉元正男さん提供)

 ある日、父の松市が自宅で5人を集めて座らせた。それぞれの預金通帳を目の前に置いた。見たことのない金額が記されていた。「六本木にマンションが建つお金だ。アメリカに半年間、留学することもできる。どっちがいい」。5人は迷わず留学を選んだ。正男は「アメリカに逃げたということだ。体は限界なのに、仕事は何年も先まで入っていて待ってくれない。勉強を兼ねて渡米した」と話す。

 メンバーは75年8月からロサンゼルスに滞在。経験を基にアルバムを発表、76年に帰国した。ただ正男は「大人のフィンガー5を作って帰ってきたのに、芸能界からは子ども向けの表現を求められ続けた」と語る。

フィンガー5のサイン入りブロマイド(玉元正男さん提供)

 フィンガー5は78年、実質的に活動を終えた。日本レコード大賞「ヤングアイドル賞」、日本歌謡大賞「放送音楽プロデューサー連盟賞」などを受賞し、数々の名曲で日本人の記憶に刻まれた6年間だった。

 5人はそれぞれの道を歩んだ。長男の一夫は不動産業へ。次男の光男はホテルニューオータニの美容室で働いた。三男の正男は東京都荒川区でバーを営んでいる。四男の晃は会社員を経て芸能界に復帰、歌声は現在もファンを魅了する。次女の妙子は結婚した。
 「幼い頃から長い間、芸能界にいた自分たちが普通の仕事をして、普通の生活を送れるのか。父が心配していたこともあった」と正男は語る。5人の共通項は、今も心を支えるのは沖縄の存在だという点だ。

母ヒサエさんの85歳のトゥシビー祝いで集まった親族。2列目に元フィンガー5のメンバーが並ぶ。左端から晃さん、正男さん、右端から妙子さん、光男さん、一夫さん=2019年、沖縄県内(玉元正男さん提供)

 妙子は「6歳で沖縄を出たが、帰れば『やっぱりいいな』と思う。安心できる場所があるのは幸せ」と語る。晃は「沖縄の人は心が温かく、世界に誇れる民族だ」と沖縄への思いを語る。

 晃はフィンガー5の活動終了後、ソロで「うちなー」という曲も発表している。故郷への思いを込めた曲だ。年月とともに変わっていく風景の中で、変わらない沖縄、守っていかねばならない沖縄らしさがあるということを強調する。「戦前は日本にいじめられ、戦後は米国の統治を受けたが、厳しい時代も文化を守ってきた。ウチナーグチを学校で教えるなどもっと沖縄の魂を大切にし、全てのウチナーンチュが誇りを持って生きられるといい」と望む。

 「沖縄を離れて長いが、いつまでもウチナーンチュだ」と語るのは光男。本土との関係を「沖縄が虐げられてきた歴史など全国に知られていないことはまだ多い。日米地位協定など米軍基地を巡る不平等も正さなければいけない」と展望する。

 正男は「沖縄への偏見を正してきたのはウチナーンチュの頑張りが大きい」と強調する。「でも復帰で何が良くなったのか。すぐに言葉にするのは難しい。もしかしたら独立して、アメリカとつきあっていった方がよかったかもしれない。そんな視点も持って、これからの沖縄について考えていく必要があると思う」と力を込めた。

(敬称略)

(宮城隆尋)

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