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「沖縄のために頑張るといつも思っていた」 具志堅用高さん(ボクシング元世界王者) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉2


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自身のボクシング人生やジムからのチャンピオン輩出を語る具志堅用高さん=6月13日、東京都杉並区の白井・具志堅スポーツジム(又吉康秀撮影)

 試合前は毎回、恐怖に襲われた。走り込んでいたから、パンチを受けてもリングで立っていられた。

 そう語るのは、ボクシングWBA世界ライトフライ級王座の13連続防衛、世界戦6連続KOなど、数々の記録を打ち立てた具志堅用高さん(62)だ。国際殿堂入りもしたスーパースターが、偉業の影でひたすら恐怖に耐えていたという。

 チャンピオンになった時「ワンヤ、カンムリワシナイン(俺はカンムリワシになる)」と話したことは有名だが、同時に「120パーセント沖縄のため」と語ってもいる。

 「沖縄の人が好きだから。何かいいんだよね。テーゲーが好きだから」

 何気なさそうに語るが、沖縄を背負う意識があったのは間違いない。復帰間もない1970年代の東京。「沖縄出身だとなかなか相手にされなかった」のだという。「沖縄のために頑張るといつも思っていた」という気持ちの源はそのあたりだったのだろう。

 「体の強さとか、闘争本能とか、沖縄の人は持っている。競うのは強いと思うよ」。故郷にそう呼び掛けるのも、郷土愛の強さゆえか。

 気取りのない人柄が多くの人に愛されるゆえんだろう。同時に自らのジムで世界王者・比嘉大吾さんを育てた。今度は愛弟子と、王座防衛の記録に挑む。

沖縄が好きだから テーゲーが好きだから

 ―比嘉大吾さんの世界王者、よかった。「(タイトルを取れなければ)ジムを閉じようと思っていた」と話していた。

 「沖縄からチャンピオンを出すのが夢だった。日本、東洋王者は誕生したが、世界はなかなか取れなかった。ボクシングというスポーツは、リングの中では一人で戦うが、リングの外は対戦を組む駆け引きなどいろいろ難しい面がある。世界の難しさを経験したから一度は諦めかけた」

 ―大吾さんは、最初に見た時からいけると思ったのですか。

 「思ったね。力強さが他の選手と全然違う。(プロで通用するためには)破壊力です。技術は試合で覚えていくが直せないものもある。だが大吾はしっかりした体で柔軟性もある。(そんな選手は)なかなかいない。何千人に1人です」

 ―大吾さんは試合の数日前、胸が苦しくなってパニックを起こしてしまったと話していた。ボクシングのプレッシャーのすごさを感じました。

 「僕なんか毎回だった。体に負担はなかったけど、ただ恐怖感」

 ―具志堅さんでもそうですか。

 「それはそうですよ。だけど一生懸命練習したから負けないという気持ちもある。練習しないでリングに立ったら、まず勝てない。僕は1週間前には(精神面の対策で)ホテルに入っていた。大吾も次回から1週間前にはトレーナーと一緒にホテルに入った方がいい」

 ―具志堅さんもボクシングは興南高校に進んでからと聞きました。

 「それまでボクシングを見たこともなかったんですよ。クラスの人にボクシング見にいこうって引っ張られていくと島の先輩がいたので、ちょっとやってみようかな、と。ボクシング部に入らなかったら島に帰っていた。ちっとも面白くなくて。友だちはいないし。本島の人は金持ちだしね。ボクシングを始めて、試合をしたら勝つから、ちょっと頑張っておこうと思っていたら、まさか全国大会に行くとは思わなかった」

世界を取る要素 僕にはなかった

 ―その後プロになりましたが。

 「プロの練習はきつかった。アマチュアの練習と全然違う。最初のころはついていけなかった。沖縄に帰ろうかと思っていた。東京にいても沖縄出身だと言うとなかなか相手にされなかったね。時代が時代だから。最初は皆、名前も読めない。『ぐしかた』と呼ばれたり、どこの出身か聞かれたりした。世界チャンピオンになって初めて『僕の名前を皆、知ってくれた』となった」

 ―(世界タイトルを奪った相手の)グスマンは強い選手でした。

 「ボクシング関係者は100パーセント勝てないと思っていたみたいです。(グスマンは)それくらい強烈なパンチを持っていた。1発もらったパンチは、経験したことがないくらいすごかった。よくダウンしなかった。やはり一生懸命走り込んだからだと思う。練習してなかったら最初のパンチで倒れていた」

 「とにかく走り込んだ。僕は比嘉大吾みたいに世界を取るような要素はないから。破壊力、体力、パンチ力は全くない」

 ―ええっ。具志堅さん、強かったじゃないですか。

 「ただ的確にパンチが当たっただけですよ」

 ―いや、すごかった。あんなにKOできるボクサーはいない。

 「あの時と今ではルールが違う。一番違うのはグローブです。6オンスだから倒せたけど、8オンスではグスマンは倒せない。グローブで全く違う」

 ―グスマン戦でチャンピオンになった時、「120パーセント沖縄のため」と言ったのが印象的でした。

 「沖縄でボクシング人生を始め、思い出がいっぱいある。ボクシングが好きな人、応援してくれた人がたくさんいたから。沖縄のために頑張るといつも思っていた」

 ―なぜそう思ったのですか。

 「沖縄の人が好きだからでしょ。テーゲーが好きだから。何かいいんだよね。ごちゃごちゃがないねえ沖縄は。東京はごちゃごちゃがいっぱいだもん。駅に行っても本当に。沖縄は好きだ」

偉い人いっぱいいる 僕は目立ってるだけ

 ―具志堅さんが戦後沖縄最高のヒーローだと思う。

 「いやあ、いっぱいいる。目立たないだけです。僕はテレビに出ているからですよ」

 ―作家の大城立裕さんは、沖縄が近代100年の劣等感をはねのけた、その基礎を固めたのが具志堅さんだと話しています。

 「だけど沖縄は医学、教育の分野で有名な人はいっぱいいるでしょ。後で聞いたけど、石垣島の先輩が早稲田の総長(大浜信泉氏)になっていた。沖縄は教育に熱心だし、医療関係も有名な人がいっぱいいる」

 ―最後、沖縄で負けました。あの時は悔しかったのでは。

 「悔しかった。コンディションがつくれなかった。金沢での13度防衛の後だったけど、やはり4カ月に1回(の世界戦)はきつい。ずっとそのペースだったけど、きつくなっていた。沖縄では何かちょっと異様な雰囲気だった。沖縄でやるならもっと早い方がよかった」

 ―沖縄で負けて引退した。もう気力が続かなかったんですか。

 「完全になくなった。最後は沖縄ということで引退しやすかった。(負けたのは)本当にショックだった。一瞬で終わったね。防衛は重ねていたけど、負ける時は一瞬です」

聞き手 編集局長・普久原均

 

ぐしけん・ようこう

 1955年、石垣市生まれ。元ボクシングWBA世界ライトフライ級チャンピオン。76年に王座を獲得し、世界タイトル13連続防衛の日本記録を成し遂げた。引退後は白井・具志堅スポーツジムを設立して後進の指導に当たるとともに、タレントとしても活躍している。2015年、ボクシング界の功労者を表彰する国際ボクシング殿堂入りした。62歳。

取材を終えて 本当のヒーローは謙虚

普久原均

 筆者の胸にはあの鮮烈な連続KOがいまだに焼き付いている。誰が何と言おうと、具志堅さんは最高のヒーローだった。

 ところがご本人は否定する。「6オンスのグローブだったから。今の8オンスなら倒せない」「ぼくには(比嘉)大吾のような破壊力、体力はない」―。自分がいかに称賛に値しないか、懸命に言葉を連ねようとする。技巧的な謙虚さではなく、本心からそう思っているとしか思えない。対戦相手の強さも力説し、他のボクサーへの敬意が言葉の端々ににじむ。偉ぶるところがつゆほどもない、素朴な人柄に感じ入った。

 取材中「チャンピオンになったら急に親戚が増えた」といった話で笑わせてばかりだった。沖縄への愛情も深い。やはり具志堅さんは本当のヒーローだ。

(琉球新報 2017年7月3日掲載)