戦後も続く疎開地との交流 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(9)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の南風原町宮平の集落

 疎開地の宮崎県から戻った赤嶺松栄さん(85)=南風原市=の家族は父松助さんを失った失意の中で宮平で戦後の暮らしを踏み出します。

 《宮平に対する父の貢献を考え、有志の方々がツー・バイ・フォー工法の家を私たちの敷地に建ててくれました。疎開地から帰ってきた私たちはすぐに入ることができました。》

 母カミさんは家族のために苦労を重ねました。父を奪い、家族を悲しませた戦争はあってはならないと赤嶺さんは訴えます。

 《これから古里に戻っての戦後生活が始まることになるわけですが、そこには何とも言いようのないつらい日々が待っていました。どうやっていけばいいのかと、家族を思う母の奔走ぶりは壮絶でした。

 戦争を振り返ってみると一家離散、冷酷なもので、生きるも死ぬも人生、失意のどん底に陥れてしまう。決してあってはならないことです。》

 疎開地で赤嶺さん家族を支えた宮崎県高岡町(現宮崎市)の受け入れ家族との交流が続きました。

 《いつまでたっても疎開先へのご恩は忘れることなく、絆を大切に、お礼をかねて、幾度も交流を続けております。》

 高岡町の人々への感謝を忘れず、赤嶺さん一家は戦後を歩んできたのです。

 (赤嶺松栄さんの体験記は今回で終わります。次回は大嶺管さんの体験です)