家族ばらばらで南部に避難 大嶺管さん 捕らわれた日(2)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の豊見城市翁長の集落

 大嶺管(すが)さん(90)=糸満市=が暮らしていた豊見城村(現豊見城市)翁長の住民は陣地構築などの勤労奉仕に動員されるようになります。「豊見城村史」によると1944年5月ごろから小禄飛行場、仲西飛行場の建設に参加します。

 豊見城第二国民学校(現市立座安小学校)を卒業した後、家の手伝いをしていた大嶺さんは動員されませんでしたが、同級生は陣地構築に駆り出されました。

 「中学校に進学した同級生は壕掘りなど日本軍の手伝いをしていました。『おにぎり一つで土運び。授業どころじゃない』と話していました」と語ります。

 男性は防衛隊として召集されました。大嶺さんの父、大城蒲助さんもその1人でした。

 45年3月、翁長の住民は本島北部への疎開を始めます。豊見城村民の疎開先は大宜味村でした。翁長住民は田嘉里や謝名城に疎開し、山中に造られた避難小屋に身を寄せます。しかし、米軍上陸後の6月まで翁長の集落に残っていた住民も多かったといいます。大嶺さん家族も北部へは疎開せず、集落に残っていました。

 米軍が迫り、混乱の中で大嶺さんは妹のフサ子さんと共に現在の糸満市方面へ避難します。「母が荷物を取りに家に戻っている間、私は4歳の妹を背負って、他の人の後を追って南部へ逃げました。家族はなーめーめー(別々)になりました」と語ります。