
大嶺管(すが)さん(90)=糸満市=は1945年6月末、現在の糸満市喜屋武で米軍に捕らわれます。米兵の呼び掛けに応じ、壕の外に出たのです。
「アメリカーが『出てこい、出てこい』と言っていました。私が最初に壕の外に出ました」
壕を出た大嶺さんら住民は豊見城村(現豊見城市)伊良波の集落の北側に置かれた伊良波収容所に移されます。ここでは本島南部の激戦地で米軍に捕らわれた住民を一時的に受け入れていました。その後、中部を経て、現在の宜野座村祖慶に置かれた収容所で過ごします。
「祖慶では着の身着のまま。アメリカーのテントの下、寝返りができるだけの小さな隙間で過ごしました。わずかな米粒が入ったおかゆを食べました」
豊見城に戻った大嶺さんは日本兵の要求で置き去りにした妹の大城フサ子さんの行方を探しました。「妹を置いた喜屋武に行きました。孤児院も探しましたが妹はいませんでした」
防衛隊となった父の蒲助さんも帰ってきませんでした。25歳で結婚した大嶺さんは自身の体験を家族に語ってきました。
「豊見城村史」によると糸満市摩文仁の「平和の礎」には540人の名が刻まれています。そのうち380人が沖縄戦犠牲者です。フサ子さん、蒲助さんの名も刻まれています。
(大嶺管さんの体験談は今回で終わります。次回から「島の戦争」です)