対馬丸撃沈きょう77年 生きた証し 残したい


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
照屋さんの母・キヨさん(左から4人目)の遺品から見つかった家族写真。弟の安次嶺眞喜さん(同6人目)と妹の正子さん(同3人目)は対馬丸に乗船し犠牲となった=1944年、那覇市内の自宅前(提供)

 太平洋戦争中の1944年8月22日、児童や一般の疎開者を乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してから77年。那覇市に住む照屋早智江さん(64)の母キヨさんは、対馬丸に乗船した弟安次嶺眞喜(しんき)さん(当時11歳)と妹正子さん(当時8歳)を失った。2人のめいに当たる照屋さんは「彼らが生きていた証しを残したい」と、5年ほど前から写真を探し、今年1月、キヨさんが大切に保管していた家族写真を発見した。18日、那覇市若狭の対馬丸記念館に新たに掲示された。 

 事件当時、8人きょうだいの長女キヨさんは20歳。弟の眞喜さんと妹の正子さんを疎開させるため、共に那覇港に向かった。父の代わりにはんこを押し、対馬丸に乗船した2人を見送った。44年8月22日午後10時すぎ、船は米軍の魚雷攻撃を受け沈没した。

きょうだい2人を失った母の思いを胸に、写真を探した照屋早智江さん=16日、那覇市泉崎の琉球新報社

 「とてもかしこい子たちだった。2人が生きていたら」。キヨさんは戦後も弟と妹を送り出したことを悔やみ、那覇港に立ち寄ることはなかった。72歳で亡くなるまで、対馬丸事件に関して多くを語らなかったが、事件を「憤まん」と言い表していた。照屋さんは「どこに向けていいのか分からない怒りと同時に、悔しくてたまらなかったのだと思う」と母の悲痛な心境を推し量る。

 看護師の照屋さんは約40年、関東で過ごした。埼玉県内の総合病院に勤務していた2011年、東日本大震災で院内は丸一日停電。予期せぬ混乱と緊張の中、患者対応に当たった。ある時、震災で家族を亡くした女性に出会った。手にしていたのは泥のついた家族の写真。それを洗う姿が、強く印象に残った。「その人が生きていたことを示す大切なものだ」と写真に対する思いが変わった。

 13年、故郷沖縄に帰ってきた。対馬丸記念館を訪れ、眞喜さんと正子さんの遺影を探したが、見当たらなかった。「2人が生きた証しを探し出したい」。親戚に連絡を取り、写真がないかを聞いて回った。今年1月、照屋さんの姉が預かっていた母の遺品から家族写真が見つかった。写真は大きく拡大印刷され、きれいな状態で残っていた。母がどれだけ大切に保管していたかを感じた。

 記念館には18日、2人を含む5人の遺影が新たに追加された。照屋さんは「遺影を見て、多くの人が対馬丸事件のことを知り、平和について考える機会にしてほしい」と願った。

 (吉田早希)